法治国家とは野蛮な人々が統治する国のことだ。野蛮な人々だからこそ法律がいる・・・とは、ただの理屈・・・か?
テレビを見るのがイヤになったのはいつ頃からだろう。画面に現われる人々の・・・なんというか、ある種類の人々の顔を見ると、背中がゾッとするのだ。なんとも不思議な話だが・・・。
それよりも、草花を見ている方が気持ちがいい。梅も桜も清々しくて・・・それから空を眺めるのもいい。人間が造ってきたモノではなく、大自然の造形の中に安らぎを感じる。
あの引き込まれるような・・・溶けるような感覚が好きだ。そういう意味では、わたしは変わってるのだろう。間違いなく平均的な人間・・・ではない。
ところで、この平均的・・・という比較の仕方は、どこから取り入れたのだろう。古来から日本にあったのだろうか。
人は神の生き宮・・・という考え方がこの国には存在していたはずで・・・人を平均的でくくってしまうことは、神の個性をも削ぎとってしまうことになる。
一人ひとりが神・・・なのだから、互いに認め合い尊重し合いながら暮らしてきたはずだ。
そう考えると、やはり外からやってきた・・・人間比較の考え方なのだろう。
平均的という基準に当てはめると、その人物の顔が消えてしまう。顔が消えるということは、その存在をも消えてしまうことになるかもしれない。
おまけに平均的・・・からはみ出せば削除できるので、国民の管理がしやすくなる。
それでいて平均的な暮らし・・・という響きは、なんとなく平和で幸せ・・・をかもし出す。それは、ひとつの安心感かもしれない。
けれど、顔を失うことで安心感を得るなんて、やっぱり変だ。自らの顔を失うということは、産まれてきた意味までも失うことになる。
世間では顔を失った・・・その世界では名の通った人々がいるけれど、オゾマシイとしか感じない。あるいは、オキノドク。
自らの顔を削り取ることは、神の顔をも削り取ること。魂を削り取ることでもある。
魂を傷つけてはいけない。
平均的という安易なモノの見方・・・安易な価値の認識は、個性を排除し自己の発見をも妨げてしまう。
この国では若者の自死が増えているという。自己の発見を妨げる平均的な社会は、その事実に何らかの加担を・・・してはいないだろうか。
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