酒呑童子というオニが丹波にいたという。
丹波は「タニハ」で、田の庭。「田」とはその形状から言霊五十音図の例えとして度々出てくる。
田の庭は、言霊の庭・・・とも読める。
田とは命の糧を生み出す場所。エネルギーを生み出す場所・・・という意味にとれなくもない。
そういう国だからこそ酒呑童子というオニがいた・・・のなら、それはそれで納得がいくような気もする。
酒呑童子を倒したといわれる源頼光は藤原道長と同時代の人だ。だから酒呑童子もその時代なのか・・・というと、わたしはそうは思わない。もう少し前の時代ではないか・・・。
いや、実際にオニがいた・・・というのではない。後の世に酒呑童子という名のオニにされてしまう何者か・・・あるいは人たちという意味でだ。
道長と同じ時代ならば、たとえば紫式部日記などに何かそれらしきものが見えても不思議ではない。式部日記には宮中に盗賊が押し入ってくる場面は出てくるが、オニが都で暴れている・・・などという記述はない。
源頼光と彼の四天王が酒呑童子を倒すのは、ずっと後の人々が作ったのだと思う。話としてはおもしろい。武家社会が始まってしばらくして創作されたのだろう。
酒呑童子とは、体制から逸脱した人々のことだとわたしは思っている。朝廷の体制に従わず、別な自治力をもって多くの人々に慕われる「理想郷」・・・を建設しようとしていた。
市場原理のシステムとはまったく違う、ひょっとすると縄文時代のシステムを・・・カタカムナの科学を操っていたのかもしれない。
その「理想郷」の存在を知った若者たちが、荒んだ都から集まってきた。そういう状況を、オニに連れ去られた・・・と形を変えたのだと思う。
都からすれば実に疎ましい存在だったろう。
時代を推測すると・・・平城京から平安京への過渡期か、それとも平安京のごく初期か・・・。
遷都するというとは、その場所では良くない何かがあったということだ。
マツロワヌ人々が、戦闘的であっても非戦闘的であっても、少なからず存在したと見てもおかしくはない。国家を安定させるために都を移した。
カタカムナのような、高い精神性を中心とした科学は、どんなにその技術や知識が高くても戦いのためには使えない。智恵を使って、時の体制のスキをつきながら生き延びることしかできない。酒呑童子は確か・・・騙されて酒をのんで討ち取られる。
酒呑童子は時のシステムから外れて理想郷を造った。物質文明でのシステムだ。今とそんなに変わらない。基本は縦の支配。
酒呑童子は横のシステムを使って、誰も飢えることなく、誰も絶望することなく、ひとつの社会を造っていったのだと思う。それは究極の自由。ホントの自由な社会。
今や人類は「オ」「ア」を方便とする「ウ」次元の力が極まってしまった。とても姑息で狡賢くて、普通の智恵では手に負えない。
けれど、古来より伝わる大祓祝詞の中に、実に見事にこの極難を乗り越えるヒントが宣られている。
「天津金木を本打ち切り末打ち断ちて 千座の置座に置足はして 天津菅麻を本刈り断ち末刈り切りて 八針に取裂きて 天津祝詞の太祝詞事を宣れ」
(あまつかなきを もとうちきり すえうちたちて ちくらのおきくらにおきたらはして あまつすがそをもとかりたち すえかりきりて やはりにとりさきて あまつのりとのふとのりとごとをのれ)
簡単に言うと「天津金木」とは現代のシステム。人の考え方と言ってもいい。それをバラバラにして、天津太祝詞を宣れ・・・と言っている。システムをバラバラにして作り直せということだ。
酒呑童子は「ウ」の次元から見ていたのではなく「イ」「エ」の次元から世界を見ていた。
「イ」を経て「エ」の世界から見ると、全部が透けて見えるので闇は光に溶ける。
透き通って、すべてを見通す世界から酒呑童子は手招きをする。
「こっちから見てみろよ 何が必要で何が不必要か・・・一目瞭然だぜ」
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