2013年3月9日土曜日

「八」の混沌世界

「食べる」・・・番組の多さは、食の価値を貶めているようにしか思えない。あまりに多いので、見ているだけで気分が悪くなる。

食べ物というのは、つまり「いのち」なので、あれだけ見せられると「いのち」の価値まで下がってしまう。

食べ物の数や種類は必要以上に溢れ、その分、捨てられる食べ物の量もハンパではない。食べることは、食べられること・・・まさに人は何モノかに食べられてしまったように思える。

欲望には底がない。食欲も性欲も・・・だからお金になる。

物質文明では、お金がなければ生活が成り立たないのはわかるが、それと引き換えに何を手放したのか・・・。

手放したモノが未来に必要なものなら、即刻、取り戻す努力をしなければならない。もう、あまり時間がない・・・と思える。何の根拠もないけれど・・・。


話は変わるが、ある女子高生のニュースが流れた。いつかアナウンサーになって、地域に貢献したい・・・という。

わたしは、台本を読むのがアナウンサーの仕事・・・言いたいことを言えない仕事・・・だと思っているので・・・複雑な思いでそのニュースを聞いていた。

そういえば、いつの間にか「トランス脂肪酸」とか「合成アミノ酸」などの話しが聞かれなくなった。商品名に堂々と・・・「マーガリン」・・・とつけられているものまで登場している。

ほんとうにどうなってしまったんだろう・・・この国は。


以前・・・西洋は「八」の判断力。東洋は「九」の判断力。そして、日本は「十」の判断力と書いた。

「八」の判断力とは、「ア」と「ワ」を除いた間の「八」文字・・・この部分だけの判断力。この部分は、具象化していくエネルギーなので、ここだけが勝手に動き回ると「出発点」も「帰着点」も見失って・・・収集がつかなくなる。

物質至上の文明は、この部分のエネルギーによってココまできたのだろう。産業革命は西洋で生まれた。

「九」の判断力とは・・・「ワ」を除いた「ア」から「ラ」までの判断力のこと。
向こう岸の「ワ」がないので、答えにたどり着けない。出口のない迷路のような、答えを見出せない不完全な判断力といえる。

主だった宗教はみんな東洋で生まれた。

「十」の判断力とは「ア」から「ワ」までの十音全部を踏まえた判断力ということ。人の在り方と人を動かすチカラを踏まえた判断力。十拳剣(トツカノツルギ)

酸性、アルカリ性・・・と分けると、中性。中つ国。中庸の国・・・ということ。どちらにも片寄らず、どちらをも抱いたチカラ・・・でもある。

ちなみに、神社の鳥居は・・・十の理(ことわり)・・・十理(トリ)を表している。他には、「金の鶏」の言い伝えなど・・・これは十理(トリ)・・・言霊のことだろう。


日本の人々はその昔・・・「十」の完全な判断力を有していた。

江戸時代、一般庶民の識字力の高さはアングロサクソンを驚かせた。ゴミひとつ落ちていない町並み。

神社の神聖さは、今でも他国の聖域とは比べ物にならないほど清らかだという。

なのに・・・何だろう、この現状は。GHQの政策が仕上げとなって、とうとうこの国の国民も何者かのシモベとなったのだろうか。


今、北朝鮮を孤立させることは、戦前の日本が孤立させられたことと・・・同じじゃないだろうか。そのことが一番判るのはこの国だろう。

中国や韓国も・・・国民レベルで手をつなぎ合うことが出来ないだろうか。

遠い昔、この国は朝鮮と手を携えて国づくりをしてきた。なぜ日本が「朝廷」・・・と呼んだのか、少し「常識」から離れて考えてみればいい。

中国からも多くの文化を輸入した・・・と学者は言っているじゃないか。


・・・あ、食の話しから、とんでもない方向へ流れてしまった。

いつのまにか「八」の世界に姿を変えた・・・この国の混沌が、じわじわと表面に浮かび上がってくる・・・日々。

これも宇宙の・・・神の計らいなのかと思ってみる・・・が、答えは、時間と次元の向こうにしかない。

0 件のコメント:

コメントを投稿