2013年4月6日土曜日
百花を知って一花を知らず
毎年、駐車場に咲くスミレ。何処からかやって来て、わずかな割れ目に根を下ろした。
少しだけ抜き取って、ここよりはちょっとはマシな場所で育てよう・・・としたことがある。けれどダメだった。
種を集めてプランターで育てようとしたことも・・・手を掛けすぎてダメになってしまった。
それ以来、ずっとそのままにしている。「ココがいい」・・・って言ってるようだ。
わたしとしては、もっと広い場所で・・・群生できるような広い場所で咲いてもらいたいけれど、彼らの気持ちは彼らにしかわからない。
そういえば、去年よりだいぶ大きくなった。また今年・・・種を拾い集めて、挑戦してみようか。今度はホッたらかしにして・・・彼らの力に任せて・・・。
アスファルトの割れ目で生きている草花は人間の目を気にしているとは思わない。だから、自分の境遇を悲しい・・・なんて思っていないだろう。彼らは「ただ生きている」。
けれど人間は不思議で、そんな彼らの存在を歌にしたりする。
花屋の店先にも綺麗な花たちが並ぶ季節になった。切花から鉢植えの苗まで・・・野菜の苗もたくさん出回っている。
いろんな品種が溢れ、色とりどりで・・・見てるだけで楽しくなる・・・というか、ついつい衝動買いをしているわたしだ。
それも・・・売れ残って、根っこもパンパンに張った・・・いわゆる瀕死寸前のものばかり。いや、ただただ生かせてあげたい・・・という思いが出てしまうのだ。
今は、去年買った「瀕死状態のハイビスカス」が気にかかっている。蘇ってほしい・・・。
花を育てながら思うのは・・・先のスミレの話しにも書いたが、手を掛けすぎてはいけない・・・ということだ。
この花はこう、この野菜はこう・・・と、いろんな知識が頭の中に詰っていても、結局はその植物の持っているチカラこそが最も頼りになる味方・・・なわけだ。
福岡翁のコトバを・・・ふと思い出す。
「人間は自然を壊せても、自然をつくることはできない。子供が玩具をいじって壊すようなものである。
人間の知恵は、いつも分別に出発してつくられる。したがって人知は分解された自然の近視的局部的把握でしかない。自然の全体そのものを知ることはできないで、不完全な自然の模造品を造ってみて、自然がわかってきたと錯覚しているにしかすぎない」
「人間は、本当に知っているのではないということを知ればよい。人知が不可知の知であることを知れば、分別知がいやになるはずである。分別を放棄すれば、無分別の知が自ずから湧く。知ろう、わかろうなどと考えなければわかるときがくる。
緑と赤を分ければ、その瞬間から真の緑や赤は消える。天地を分別すれば、天地はわからないものになる。
天地を知るためには、天地を分けず、一体としてみるしかない。天と人の融合である。
統一、合体するためには、天地に相対する人間を捨てる、自己滅却以外に方法はない」
福岡正信「わら一本の革命」より抜粋
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