2012年6月30日土曜日

夏越の祓いに寄せて


六月三十日は夏越(なごし)の祓いの日だ。ちょうど一年の半分。旧暦ならば・・・たしか今年は八月の半ばあたりになるはず・・・まさに夏越のとき。

(引用)・・・六月の大祓を夏越(なごし)の祓と呼びます。大祓詞を唱え、人形(ひとがた・人の形に切った白紙)などを用いて、身についた半年間の穢れを祓い、無病息災を祈るため、茅や藁を束ねた茅の輪(ちのわ)を神前に立てて、これを三回くぐりながら「水無月の夏越の祓する人は千歳の命のぶというなり」と唱えます・・・(神社本庁hpより)

穢れを祓い清めるとは・・・邪気を祓い清めることと思う。邪気とは、邪(よこしま)な意識のことでいいかな。

邪気に捉われると何故か全体が見えなくなってしまうので、その状態を・・・もとの中心であるべき場所に戻せよ・・・というのが祓いなのだろう。

意識を中心に戻すのはそれほど難しくはない。偏っている自分に気づくだけで、ヒョイ・・・って簡単に戻ってしまう。

茅の輪(ちのわ)をくぐるのは、そのキッカケをつくるため。生まれ直す・・・ってことでいいと思う。輪の真ん中をくぐるのは、「輪」・・・「渦」の真ん中をいつも意識していなさい、ということだろう。ブレるんじゃないよってことだ。

それを、一年のウェーブの・・・山か谷かどちらかになる真ん中の日にするなんて、さすがだ。

ところで、茅の輪(ちのわ)・・・「血の輪」「地の輪」「智の輪」・・・等々、漢字にするといろいろ想像してしまう・・・けれど、漢字っていうのは知識を汲み出すように出来ているようで、どうもシックリとこない。

知識と感覚・・・わたしは感覚が先だ、やっぱり。

カナだけで「ちのわ」なら、言葉の響きや表情で見えない世界を感じれるような気がする。日本語はカナ・・・だからこそ言霊を感じ取ることが出来るのだ。

言葉の向こうにある「思い」を感じ取れる・・・ことが「奥歯にものの挟まった」・・・となるのか「言葉を濁す」っていうことになるのか・・・.

でも、神社の狛犬は「あ」と「ん」だ。「阿吽の呼吸」なので、言葉なんていらない。言葉がなくても分かり合える仲なのだ。

普通の犬やネコだって余計な言葉はいらない。睨み合っただけで相手のここを理解出来るのに・・・。人間は相手の気持ちを理解することが出来なくなった・・・と、少々乱暴ではあるが、新しい視点で人間を考えてみるわけだ。

そういうふうに考えると、古代の日本人はスゴかったわけで・・・たとえば薬草なんかも、きっと植物の波動を見極めていたのだろう。植物と会話してたわけだ。ま、今でもそういう人はいるけれど・・・そういうことが不思議ではなく、当たり前だったってことだ。

今、人類が歩いてる道が・・・「幹」なのか「枝」なのか・・・そんなこと未来にならなければ判らないけれど、わたしとしてはどうも・・・太い「枝」のような気がしてならない。

自分は自分の・・・たぶん、自分にしかわからない道を歩むしかないのだろう。

邪気を祓い清めるたびにわたしの身体は・・・酸性(老化)に向かおうとするのを中性(トコワカ)に引き戻される・・・つまり真ん中に引き戻される。

だから・・・「水無月の夏越の祓する人は千歳の命のぶというなり」・・・となるのだ。これが、歳を取らない、フシギフシギの宇宙の科学。

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