法治国家とは野蛮な人々が統治する国のことだ。野蛮な人々だからこそ法律がいる・・・とは、ただの理屈・・・か?
テレビを見るのがイヤになったのはいつ頃からだろう。画面に現われる人々の・・・なんというか、ある種類の人々の顔を見ると、背中がゾッとするのだ。なんとも不思議な話だが・・・。
それよりも、草花を見ている方が気持ちがいい。梅も桜も清々しくて・・・それから空を眺めるのもいい。人間が造ってきたモノではなく、大自然の造形の中に安らぎを感じる。
あの引き込まれるような・・・溶けるような感覚が好きだ。そういう意味では、わたしは変わってるのだろう。間違いなく平均的な人間・・・ではない。
ところで、この平均的・・・という比較の仕方は、どこから取り入れたのだろう。古来から日本にあったのだろうか。
人は神の生き宮・・・という考え方がこの国には存在していたはずで・・・人を平均的でくくってしまうことは、神の個性をも削ぎとってしまうことになる。
一人ひとりが神・・・なのだから、互いに認め合い尊重し合いながら暮らしてきたはずだ。
そう考えると、やはり外からやってきた・・・人間比較の考え方なのだろう。
平均的という基準に当てはめると、その人物の顔が消えてしまう。顔が消えるということは、その存在をも消えてしまうことになるかもしれない。
おまけに平均的・・・からはみ出せば削除できるので、国民の管理がしやすくなる。
それでいて平均的な暮らし・・・という響きは、なんとなく平和で幸せ・・・をかもし出す。それは、ひとつの安心感かもしれない。
けれど、顔を失うことで安心感を得るなんて、やっぱり変だ。自らの顔を失うということは、産まれてきた意味までも失うことになる。
世間では顔を失った・・・その世界では名の通った人々がいるけれど、オゾマシイとしか感じない。あるいは、オキノドク。
自らの顔を削り取ることは、神の顔をも削り取ること。魂を削り取ることでもある。
魂を傷つけてはいけない。
平均的という安易なモノの見方・・・安易な価値の認識は、個性を排除し自己の発見をも妨げてしまう。
この国では若者の自死が増えているという。自己の発見を妨げる平均的な社会は、その事実に何らかの加担を・・・してはいないだろうか。
2013年3月30日土曜日
2013年3月23日土曜日
何の根拠もないけれど
白村江の戦いから壬申の乱・・・のあたりの日本は、実に激動の時代だったと思う。多くの変化を生み、また多くの謎を残した。
この時代にのみ「天」とつく天皇が二人存在する。これも妙な話のひとつだ・・・とわたしは思っている。が、そのことについては今は書かない。
この時代を経て、日本は国書の編纂を始める。
それまでは国書を必要としなかった・・・のか、それともこの時期を経て何かが・・・外交上の大きな変化が生まれたのか。
普通に考えると、唐の存在を意識して国家の体裁が必要だった・・・となるだろう。
たとえそうだとしても・・・その国書の中に言霊の仕組みが、それも隠すように埋め込まれていることは、なんとも大きな謎で・・・同時に、大切な歴史的変遷を物語っているように思う。
言霊の仕組みを未来の人々に・・・残さなければならず、なおかつ当時の何者かの目から、隠さなければならず・・・。
それだけで、想像以上に巨大な力が押し寄せてきたことを感じてしまう。
日本には、漢字導入以前に文字があった・・・とわたしは信じている。いわゆる「神代文字」だ。さらに、その神代文字からカナ文字が生まれた・・・あるいは、カタカムナ図象からカナ文字は生まれたのか・・・とも思っている。
いずれにしても漢字導入以前・・・恐らく、はるか昔には文字が生まれていたと思える。言霊の国だ。そう考える方が自然だろう。
それなのに何故、漢文として国書を編纂したのか。日本固有の文字でないのは何故か。唐の存在の大きさ・・・ということか。
神代文字は一語一文字。ひとつひとつの音が、ひとつひとつの宇宙を持つのだ。
そのそれぞれの宇宙を漢文に織り交ぜながら古事記はまとめられた。並大抵の感覚ではないことがよくわかる。素晴らしい快挙。
現在の日本語表記をみると、大陸から渡ってきた漢字を実にタクミに取り入れているのがわかる。同じ発音でも漢字の違いでその意味が理解できる。
こういう表記が他国にあるのかどうなのか門外漢のわたしにはよく分からないが、現在の日本語表記になるために古事記の存在は大きかったとも思う。
当時はまさに国難の時代だったはず。大国の唐がすぐそこまで押し寄せてくる。百済からは多くの人々が逃れてきただろう。
都を近江に移したことがそれを物語っている。摂津の海岸線は、神戸から難波あたりまで避難民で溢れかえっていたのではないだろうか。
ふと・・・
TPP後の日本の未来をイメージしてしまう。世界中から集まってきた移民たちや、職を失った日本人たちが・・・巷に溢れかえっている。
巨大な力に為すすべも無く、この国の指導者たちは大きな波に呑まれてゆく。
ひょっとすると・・・いや、まったくの想像だが・・・その昔、この国には国家という体裁が無かったのではないだろうか。
「倭人」・・・「和」の人々。
国家という体裁を必要とせず、ただそこに大きな「御柱」のみが聳え立ち・・・人々はその「御柱」の下に集い、分かち合い、つり合いながら暮らしていた。独裁者も支配者もいない。
漢の時代、「倭人」と呼ばれる民は朝鮮半島からベトナムの辺りまでの海洋民族の総称・・・だった、と何かの書で読んだことがある。
政府が無くなっても、この国は無くならない。日本語が存在するかぎり日本国は無くならない。何故なら、言霊の仕組みは大自然の仕組み・・・大宇宙の仕組み・・・人のこころの仕組みだから。
唐の巨大な力をその深い懐で受け止めたように、今回の国難も・・・すぅ~っと呑み込んで、新しい未来に変えてしまうような・・・まったく何の根拠もないけれど、あたたかい思いが胸の中に吹く。
人間が、ホントに必要なものに気がつけば、そしてそれを求める生き方に向かえば・・・資本主義など、煙のように消えてしまう。言霊の仕組みは、そこへ向かう大きなエネルギー。これが一厘の仕組み・・・なのかも。
この時代にのみ「天」とつく天皇が二人存在する。これも妙な話のひとつだ・・・とわたしは思っている。が、そのことについては今は書かない。
この時代を経て、日本は国書の編纂を始める。
それまでは国書を必要としなかった・・・のか、それともこの時期を経て何かが・・・外交上の大きな変化が生まれたのか。
普通に考えると、唐の存在を意識して国家の体裁が必要だった・・・となるだろう。
たとえそうだとしても・・・その国書の中に言霊の仕組みが、それも隠すように埋め込まれていることは、なんとも大きな謎で・・・同時に、大切な歴史的変遷を物語っているように思う。
言霊の仕組みを未来の人々に・・・残さなければならず、なおかつ当時の何者かの目から、隠さなければならず・・・。
それだけで、想像以上に巨大な力が押し寄せてきたことを感じてしまう。
日本には、漢字導入以前に文字があった・・・とわたしは信じている。いわゆる「神代文字」だ。さらに、その神代文字からカナ文字が生まれた・・・あるいは、カタカムナ図象からカナ文字は生まれたのか・・・とも思っている。
いずれにしても漢字導入以前・・・恐らく、はるか昔には文字が生まれていたと思える。言霊の国だ。そう考える方が自然だろう。
それなのに何故、漢文として国書を編纂したのか。日本固有の文字でないのは何故か。唐の存在の大きさ・・・ということか。
神代文字は一語一文字。ひとつひとつの音が、ひとつひとつの宇宙を持つのだ。
そのそれぞれの宇宙を漢文に織り交ぜながら古事記はまとめられた。並大抵の感覚ではないことがよくわかる。素晴らしい快挙。
現在の日本語表記をみると、大陸から渡ってきた漢字を実にタクミに取り入れているのがわかる。同じ発音でも漢字の違いでその意味が理解できる。
こういう表記が他国にあるのかどうなのか門外漢のわたしにはよく分からないが、現在の日本語表記になるために古事記の存在は大きかったとも思う。
当時はまさに国難の時代だったはず。大国の唐がすぐそこまで押し寄せてくる。百済からは多くの人々が逃れてきただろう。
都を近江に移したことがそれを物語っている。摂津の海岸線は、神戸から難波あたりまで避難民で溢れかえっていたのではないだろうか。
ふと・・・
TPP後の日本の未来をイメージしてしまう。世界中から集まってきた移民たちや、職を失った日本人たちが・・・巷に溢れかえっている。
巨大な力に為すすべも無く、この国の指導者たちは大きな波に呑まれてゆく。
ひょっとすると・・・いや、まったくの想像だが・・・その昔、この国には国家という体裁が無かったのではないだろうか。
「倭人」・・・「和」の人々。
国家という体裁を必要とせず、ただそこに大きな「御柱」のみが聳え立ち・・・人々はその「御柱」の下に集い、分かち合い、つり合いながら暮らしていた。独裁者も支配者もいない。
漢の時代、「倭人」と呼ばれる民は朝鮮半島からベトナムの辺りまでの海洋民族の総称・・・だった、と何かの書で読んだことがある。
政府が無くなっても、この国は無くならない。日本語が存在するかぎり日本国は無くならない。何故なら、言霊の仕組みは大自然の仕組み・・・大宇宙の仕組み・・・人のこころの仕組みだから。
唐の巨大な力をその深い懐で受け止めたように、今回の国難も・・・すぅ~っと呑み込んで、新しい未来に変えてしまうような・・・まったく何の根拠もないけれど、あたたかい思いが胸の中に吹く。
人間が、ホントに必要なものに気がつけば、そしてそれを求める生き方に向かえば・・・資本主義など、煙のように消えてしまう。言霊の仕組みは、そこへ向かう大きなエネルギー。これが一厘の仕組み・・・なのかも。
2013年3月16日土曜日
酒呑童子
酒呑童子というオニが丹波にいたという。
丹波は「タニハ」で、田の庭。「田」とはその形状から言霊五十音図の例えとして度々出てくる。
田の庭は、言霊の庭・・・とも読める。
田とは命の糧を生み出す場所。エネルギーを生み出す場所・・・という意味にとれなくもない。
そういう国だからこそ酒呑童子というオニがいた・・・のなら、それはそれで納得がいくような気もする。
酒呑童子を倒したといわれる源頼光は藤原道長と同時代の人だ。だから酒呑童子もその時代なのか・・・というと、わたしはそうは思わない。もう少し前の時代ではないか・・・。
いや、実際にオニがいた・・・というのではない。後の世に酒呑童子という名のオニにされてしまう何者か・・・あるいは人たちという意味でだ。
道長と同じ時代ならば、たとえば紫式部日記などに何かそれらしきものが見えても不思議ではない。式部日記には宮中に盗賊が押し入ってくる場面は出てくるが、オニが都で暴れている・・・などという記述はない。
源頼光と彼の四天王が酒呑童子を倒すのは、ずっと後の人々が作ったのだと思う。話としてはおもしろい。武家社会が始まってしばらくして創作されたのだろう。
酒呑童子とは、体制から逸脱した人々のことだとわたしは思っている。朝廷の体制に従わず、別な自治力をもって多くの人々に慕われる「理想郷」・・・を建設しようとしていた。
市場原理のシステムとはまったく違う、ひょっとすると縄文時代のシステムを・・・カタカムナの科学を操っていたのかもしれない。
その「理想郷」の存在を知った若者たちが、荒んだ都から集まってきた。そういう状況を、オニに連れ去られた・・・と形を変えたのだと思う。
都からすれば実に疎ましい存在だったろう。
時代を推測すると・・・平城京から平安京への過渡期か、それとも平安京のごく初期か・・・。
遷都するというとは、その場所では良くない何かがあったということだ。
マツロワヌ人々が、戦闘的であっても非戦闘的であっても、少なからず存在したと見てもおかしくはない。国家を安定させるために都を移した。
カタカムナのような、高い精神性を中心とした科学は、どんなにその技術や知識が高くても戦いのためには使えない。智恵を使って、時の体制のスキをつきながら生き延びることしかできない。酒呑童子は確か・・・騙されて酒をのんで討ち取られる。
酒呑童子は時のシステムから外れて理想郷を造った。物質文明でのシステムだ。今とそんなに変わらない。基本は縦の支配。
酒呑童子は横のシステムを使って、誰も飢えることなく、誰も絶望することなく、ひとつの社会を造っていったのだと思う。それは究極の自由。ホントの自由な社会。
今や人類は「オ」「ア」を方便とする「ウ」次元の力が極まってしまった。とても姑息で狡賢くて、普通の智恵では手に負えない。
けれど、古来より伝わる大祓祝詞の中に、実に見事にこの極難を乗り越えるヒントが宣られている。
「天津金木を本打ち切り末打ち断ちて 千座の置座に置足はして 天津菅麻を本刈り断ち末刈り切りて 八針に取裂きて 天津祝詞の太祝詞事を宣れ」
(あまつかなきを もとうちきり すえうちたちて ちくらのおきくらにおきたらはして あまつすがそをもとかりたち すえかりきりて やはりにとりさきて あまつのりとのふとのりとごとをのれ)
簡単に言うと「天津金木」とは現代のシステム。人の考え方と言ってもいい。それをバラバラにして、天津太祝詞を宣れ・・・と言っている。システムをバラバラにして作り直せということだ。
酒呑童子は「ウ」の次元から見ていたのではなく「イ」「エ」の次元から世界を見ていた。
「イ」を経て「エ」の世界から見ると、全部が透けて見えるので闇は光に溶ける。
透き通って、すべてを見通す世界から酒呑童子は手招きをする。
「こっちから見てみろよ 何が必要で何が不必要か・・・一目瞭然だぜ」
2013年3月9日土曜日
「八」の混沌世界
「食べる」・・・番組の多さは、食の価値を貶めているようにしか思えない。あまりに多いので、見ているだけで気分が悪くなる。
食べ物というのは、つまり「いのち」なので、あれだけ見せられると「いのち」の価値まで下がってしまう。
食べ物の数や種類は必要以上に溢れ、その分、捨てられる食べ物の量もハンパではない。食べることは、食べられること・・・まさに人は何モノかに食べられてしまったように思える。
欲望には底がない。食欲も性欲も・・・だからお金になる。
物質文明では、お金がなければ生活が成り立たないのはわかるが、それと引き換えに何を手放したのか・・・。
手放したモノが未来に必要なものなら、即刻、取り戻す努力をしなければならない。もう、あまり時間がない・・・と思える。何の根拠もないけれど・・・。
話は変わるが、ある女子高生のニュースが流れた。いつかアナウンサーになって、地域に貢献したい・・・という。
わたしは、台本を読むのがアナウンサーの仕事・・・言いたいことを言えない仕事・・・だと思っているので・・・複雑な思いでそのニュースを聞いていた。
そういえば、いつの間にか「トランス脂肪酸」とか「合成アミノ酸」などの話しが聞かれなくなった。商品名に堂々と・・・「マーガリン」・・・とつけられているものまで登場している。
ほんとうにどうなってしまったんだろう・・・この国は。
以前・・・西洋は「八」の判断力。東洋は「九」の判断力。そして、日本は「十」の判断力と書いた。
「八」の判断力とは、「ア」と「ワ」を除いた間の「八」文字・・・この部分だけの判断力。この部分は、具象化していくエネルギーなので、ここだけが勝手に動き回ると「出発点」も「帰着点」も見失って・・・収集がつかなくなる。
物質至上の文明は、この部分のエネルギーによってココまできたのだろう。産業革命は西洋で生まれた。
「九」の判断力とは・・・「ワ」を除いた「ア」から「ラ」までの判断力のこと。
向こう岸の「ワ」がないので、答えにたどり着けない。出口のない迷路のような、答えを見出せない不完全な判断力といえる。
主だった宗教はみんな東洋で生まれた。
「十」の判断力とは「ア」から「ワ」までの十音全部を踏まえた判断力ということ。人の在り方と人を動かすチカラを踏まえた判断力。十拳剣(トツカノツルギ)
酸性、アルカリ性・・・と分けると、中性。中つ国。中庸の国・・・ということ。どちらにも片寄らず、どちらをも抱いたチカラ・・・でもある。
ちなみに、神社の鳥居は・・・十の理(ことわり)・・・十理(トリ)を表している。他には、「金の鶏」の言い伝えなど・・・これは十理(トリ)・・・言霊のことだろう。
日本の人々はその昔・・・「十」の完全な判断力を有していた。
江戸時代、一般庶民の識字力の高さはアングロサクソンを驚かせた。ゴミひとつ落ちていない町並み。
神社の神聖さは、今でも他国の聖域とは比べ物にならないほど清らかだという。
なのに・・・何だろう、この現状は。GHQの政策が仕上げとなって、とうとうこの国の国民も何者かのシモベとなったのだろうか。
今、北朝鮮を孤立させることは、戦前の日本が孤立させられたことと・・・同じじゃないだろうか。そのことが一番判るのはこの国だろう。
中国や韓国も・・・国民レベルで手をつなぎ合うことが出来ないだろうか。
遠い昔、この国は朝鮮と手を携えて国づくりをしてきた。なぜ日本が「朝廷」・・・と呼んだのか、少し「常識」から離れて考えてみればいい。
中国からも多くの文化を輸入した・・・と学者は言っているじゃないか。
・・・あ、食の話しから、とんでもない方向へ流れてしまった。
いつのまにか「八」の世界に姿を変えた・・・この国の混沌が、じわじわと表面に浮かび上がってくる・・・日々。
これも宇宙の・・・神の計らいなのかと思ってみる・・・が、答えは、時間と次元の向こうにしかない。
食べ物というのは、つまり「いのち」なので、あれだけ見せられると「いのち」の価値まで下がってしまう。
食べ物の数や種類は必要以上に溢れ、その分、捨てられる食べ物の量もハンパではない。食べることは、食べられること・・・まさに人は何モノかに食べられてしまったように思える。
欲望には底がない。食欲も性欲も・・・だからお金になる。
物質文明では、お金がなければ生活が成り立たないのはわかるが、それと引き換えに何を手放したのか・・・。
手放したモノが未来に必要なものなら、即刻、取り戻す努力をしなければならない。もう、あまり時間がない・・・と思える。何の根拠もないけれど・・・。
話は変わるが、ある女子高生のニュースが流れた。いつかアナウンサーになって、地域に貢献したい・・・という。
わたしは、台本を読むのがアナウンサーの仕事・・・言いたいことを言えない仕事・・・だと思っているので・・・複雑な思いでそのニュースを聞いていた。
そういえば、いつの間にか「トランス脂肪酸」とか「合成アミノ酸」などの話しが聞かれなくなった。商品名に堂々と・・・「マーガリン」・・・とつけられているものまで登場している。
ほんとうにどうなってしまったんだろう・・・この国は。
以前・・・西洋は「八」の判断力。東洋は「九」の判断力。そして、日本は「十」の判断力と書いた。
「八」の判断力とは、「ア」と「ワ」を除いた間の「八」文字・・・この部分だけの判断力。この部分は、具象化していくエネルギーなので、ここだけが勝手に動き回ると「出発点」も「帰着点」も見失って・・・収集がつかなくなる。
物質至上の文明は、この部分のエネルギーによってココまできたのだろう。産業革命は西洋で生まれた。
「九」の判断力とは・・・「ワ」を除いた「ア」から「ラ」までの判断力のこと。
向こう岸の「ワ」がないので、答えにたどり着けない。出口のない迷路のような、答えを見出せない不完全な判断力といえる。
主だった宗教はみんな東洋で生まれた。
「十」の判断力とは「ア」から「ワ」までの十音全部を踏まえた判断力ということ。人の在り方と人を動かすチカラを踏まえた判断力。十拳剣(トツカノツルギ)
酸性、アルカリ性・・・と分けると、中性。中つ国。中庸の国・・・ということ。どちらにも片寄らず、どちらをも抱いたチカラ・・・でもある。
ちなみに、神社の鳥居は・・・十の理(ことわり)・・・十理(トリ)を表している。他には、「金の鶏」の言い伝えなど・・・これは十理(トリ)・・・言霊のことだろう。
日本の人々はその昔・・・「十」の完全な判断力を有していた。
江戸時代、一般庶民の識字力の高さはアングロサクソンを驚かせた。ゴミひとつ落ちていない町並み。
神社の神聖さは、今でも他国の聖域とは比べ物にならないほど清らかだという。
なのに・・・何だろう、この現状は。GHQの政策が仕上げとなって、とうとうこの国の国民も何者かのシモベとなったのだろうか。
今、北朝鮮を孤立させることは、戦前の日本が孤立させられたことと・・・同じじゃないだろうか。そのことが一番判るのはこの国だろう。
中国や韓国も・・・国民レベルで手をつなぎ合うことが出来ないだろうか。
遠い昔、この国は朝鮮と手を携えて国づくりをしてきた。なぜ日本が「朝廷」・・・と呼んだのか、少し「常識」から離れて考えてみればいい。
中国からも多くの文化を輸入した・・・と学者は言っているじゃないか。
・・・あ、食の話しから、とんでもない方向へ流れてしまった。
いつのまにか「八」の世界に姿を変えた・・・この国の混沌が、じわじわと表面に浮かび上がってくる・・・日々。
これも宇宙の・・・神の計らいなのかと思ってみる・・・が、答えは、時間と次元の向こうにしかない。
2013年3月2日土曜日
未来予想
人間は一個の惑星を破壊出来るほどの核兵器を造り出した。たとえ破壊出来なくてもその軌道を変えることぐらいは出来るかもしれない。一個の惑星が軌道を変えて動き出すことの、全宇宙への影響は計り知れない。
人間の暴走は宇宙の存在をも危険に陥れてしまう。そんな人間と宇宙の関係は、ガンと人間の関係とよく似ている。ガンの暴走は人間の命を危険に陥れる。
宇宙のガン細胞となった人間の未来はどうなるのだろう。宇宙の法則を刺激し始めた人間という細胞に対して、宇宙は知らぬ顔はできない。
宇宙が何らかの処置をとるとしたら・・・さて、宇宙は人類に対してどういう処置をとるのか。
人間のレベルで考えると・・・現代医学での処置・・・アロパシーでの処置が行なわれる・・・と予想してしまう。つまり、人類が50年も60年も同じことを繰り返している処方(削除・焼却・薬物)で、ガン細胞としての人類を処理してしまうこと・・・がすぐに頭に浮かんでくる。
アロパシーという医学が宇宙の仕組み・・・法則に沿っているのなら、宇宙はそのように人類を処理すると思える・・・もし宇宙がアロパシーを選んだのなら、俗に言う「天罰」のような未来が訪れることになる。
人間がガン細胞に対して「天罰」を下して・・・今度は人間が宇宙から「天罰」を受ける・・・ということか。どっかの映画のようなストーリーだ。大衆的で、なかなかおもしろい。
不安を煽る社会システムと符号する結末だ。
けれど、宇宙はアロパシーを選ばない。対症療法というのは分離・分断による治療法なので、宇宙の本質に合いそうにも無い。
だいいち、宇宙はガンの正体を知っている。ガンは免疫反応なので、人間が宇宙のガン細胞だとすると、人間は無意識のうちに宇宙に対して警告を発している・・・ということになる。
宇宙や自然には当然のように自然治癒力が備わっている。人間が宇宙に対して送っている無意識のSOSは、宇宙が治癒へ向けて大きく舵を切るための信号となる。
自然治癒力とは、宇宙の生成発展の姿の投影でもあると思う。すべては生成発展するように出来ている。
自然治癒力とは、だから宇宙の法則でもある。片寄ったエネルギーの流れを真ん中に・・・中性に戻そうとするハタラキ。
ちなみに、自然治癒力を喚起させる医学をホメオパシーというが、ホメオパシーを知ることは宇宙の法則に触れることとなる。
ということは・・・ホメオパシーを知ることは、宇宙が人類に対して行なう処方を知ることになりはしないか。
それはつまり、人類の未来に起こる出来事・・・と言えなくもない。
ホメオパシーでは、レメディの服用によって自然治癒力の喚起・・・身体が忘れかけていた自然治癒システムの記憶を思い出すように働きかける。
宇宙に無駄なものが何ひとつ無いように、人間の身体の中にも無駄なものは何処にも無い。ただちょっとバランスを崩しているだけだ。それぞれの部位が、それぞれの仕事を・・・忘れてしまったのか、やる気をなくしたのは知らないけれど・・・出来なくなっただけなのだ。
レメディはそのことを思いださてくれるのかもしれない。「あ、自分は必要な存在だったんだ」・・・と、気づかせてくれるのかもしれない。
それでは・・・ガン細胞に姿を変えた人間に対して宇宙が取るホメオパシー的処置とは。そして、その処置の後、人類はどうなるのか。
たとえば、ホメオパシーによって癒され、治癒したガン細胞は・・・消えてしまうのか・・・それとも体外に排出されるのか・・・はっきりとはわからない。
千島学説から推察すると、ガンが治癒するとは・・・ガン細胞が血液に可逆する(戻る)か、あるいは正常な細胞に戻るか・・・ということになると思う。
血液に還るということは・・・地球の大地に還る・・・ということか。あるいは、人間が人間であることに気がつく・・・宇宙の一部ということに・・・大きな命の中で生かされている・・・ということに気がつくということか。
そこには・・・「原子転換」・・・もあるかもしれない。人類の「原子転換」?・・・興味津々。
やっぱり、ここでも自覚と自立・・・かな。霊長としての自覚、霊止(ヒト)としての自立。
グローバリズムは、なんでもかんでもマッタイラに均そうとするけれど、自覚と自立が生まれれば、デコボコなまま調和できる。
調和こそ宇宙が望む未来。もうひとつ上の調和へ向けて、無事に自然治癒の波に乗れますように。
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