2012年12月8日土曜日

マコトのコトバ


「日本を取り戻す」とは・・・なんとも後ろ向き・・・で、さらに「動かすのは決断です」にいたっては・・・支離滅裂。

「未来への約束」・・・が、いちばんまともかなぁ・・・未来の日本をどうするのか、が政治としての姿勢だろう、やっぱり。

・・・などと、思いながら選挙戦をながめている。

人類の歩みの中・・・そのどこかで「概念」というものが生まれた。きっと「カミ」を実感できなくなった頃だろう。「カミ」と分離してしまったので、真実の「コトバ」を見失ったのだと思う。


たとえば・・・「日本を取り戻す」。

この国では「日本」というものが何なのか、よくわからない。それは「神話」を教えることが無くなったからかもしれない。

神話の奥深さを、子供の頃に感じることは大事なことだ。

「ヤマトゴコロ」によってまとまった国でありながら「国防軍」だの「ミサイル防衛」だのを口走っているようでは、残念ながらそれはホントの日本ではない。

取り戻すべきものを間違ってはいけない。そんなことになったら、それこそご先祖様に申し訳が立たないだろう。

ここは「大和」の国。「やまと」は「たいわ」。大きな和・・・の国だ。「たいわ」と「対話」が同じ発音になるのは、偶然じゃない。


ついでに・・・「動かすのは決断です」は・・・何を動かし、何を決断するのか・・・さっぱりわからない。

右へ動くのか、左へ動くのか・・・。前へ?後ろへ?それとも斜め?・・・「動かない」という決断だったらどうするの・・・などなど。

これは文法的にどうなのか、とか・・・どうでもいいことまで考えてしまう。


ところで、人は概念的な言い回しについついくすぐられてしまう。「平等」「平和」「人権」「正義」・・・ところが、近代の戦争は時としてこういうコトバに導かれてきた。

「平等」を勝ち取るために戦い。「平和」な社会をつくるために争い。「人権」を守るために闘争し。「正義」を知らしめるために侵略する。

これらのコトバの持つエネルギーは・・・何故人を争いへ導くのだろう。


古事記の「言戸(ことど)度(わた)し」において、千引きの岩を挟んで行なわれたイザナギとイザナミのやりとりは、この概念的なコトバの流布のことだという。


イザナミ「愛(うつく)しき我(あ)が汝夫(なせ)の命(みこと)、かく為(せ)ば、汝(いまし)の國の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ。」

イザナギ「愛(うつく)しき我(あ)が汝妹(なにも)の命(みこと)、汝(いまし)然為(しかせ)ば、吾(あれ)一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)の産屋立てむ」    (岩波文庫「古事記」より)


「人草」とは「霊(ひ)と草」・・・言霊のことだ。

「一日に千の真(まこと)のコトバを、概念のコトバに変えてやる」
「それならば、千五百の真(まこと)のコトバを産み出してやる」・・・というわけだ。


それでは・・・「真(マコト)のコトバ」とは?

見知らぬ・・・地球の裏側の国で起こったことに涙したり、感動したりするのは何故だろう。赤ちゃんの泣き声や、人の笑い声が人類共通なのは何故だろう。

それは・・・すべては根源的な「何か」につながっているからだ。みんな同じ根っこにつながっている。

人類だけじゃない・・・すべて。すべてが絶対的な「何か」につながっている。

その絶対的な「何か」を・・・わかりやすく「愛」と呼ぶならば・・・絶対的な愛。愛から生まれるコトバ。そのコトバが産み出すハタラキ・・・それを「カミ」と言う。

真(まこと)のコトバには、つまり「カミ」が宿る・・・というわけだ。



0 件のコメント:

コメントを投稿