2012年12月29日土曜日

桃太郎のエネルギー

誰かの幸せのためにこういうモノを造りたい、こういう知識を使いたい・・・そういう「イ」次元から放たれる意志エネルギーに導かれた物質文明ならば、これからもずっとずっと・・・宇宙レベルで進歩していくんだろう。

けれど、今のシステム・・・「ウ」次元に捉われた意志エネルギーによって大きくなった物質文明では、残念ながらもう進歩はできない。行き詰ってしまった。

宇宙生命としての循環性を失ってしまった・・・ということだ。あるいは・・・血液の危機を知らせるガンになってしまった・・・といえるかもしれない。もちろん地球人類がである。

進歩が出来ないということは、つまり文明の停止。だから、時間の停止ということ。マヤ暦がここで終わっているのは、たぶんそういうことだ。

ここでいったん終わり。そして人類は、大きなカーブを曲がることになる。自己実現から自己表現へのカーブ・・・かな。


普通、カーブを曲がるときはスピードを落とす・・・けれど、こんなに暴走している状態で、おまけにドライバーが前を見ていない・・・居眠りでもしているとなると・・・みんなガラガラとアッチの方に振り飛ばされてしまうだろう。

乗り物が大きければ大きいほど・・・積荷が多ければ多いほど大惨事になってしまう。まさに滅亡へ向かう・・・ことになる。

ところが、どんなに暴走していても、どんなに加速度を上げていても、ひとつだけ回避できる方法がある。それは・・・暴走へと引きずり込まれているクルマの・・・部品のひとつひとつが、何かに気づくこと・・・つまり目覚めることだ。

気づいた人から意識を向ける方向を変えてしまう・・・たとえそれが、自分だけで・・・身の回りに誰ひとり理解してくれる人がいなくても・・・。

目覚める人が多ければ多いほど無事に文明のカーブを曲がることができる・・・はず。

イメージとしては・・・クルマの駆動部分はズルズルと横滑り・・・それでも車体全体は、行くべき方向へ向いていく・・・まるで四輪ドリフト走行のような・・・。


桃太郎の昔話について少し・・・あのお話しに登場するおじいさんおばあさんは・・・実はイザナギ・イザナミなのだ。

だから桃太郎は、おじいさんおばあさんの思いのこもった「黍団子」をもらう。これは「キ・ミ団子」・・・である。

「桃」は「百(もも)」。本質の50音と、その運用法則の50音とでの・・・百。言霊50音図のこと・・・言霊のエネルギーといってもいい。

鬼が島の鬼の・・・「オ」は「オ」次元。経験智や知識のことで「ニ」は、その二次的なもの・・・だから科学や学問をあらわしているわけだ。つまり、物質文明であり、その文明が暴走している状態といえる。

親神のイザナキ神・イザナミ神に愛され育まれた桃太郎は、暴走する物質文明の鬼を退治して帰還する・・・が、実際は「退治」するのではない。鎮める・・・といった方が近いと思う。

その方法は?
犬は酸性で・・・「陽」。猿はアルカリ性で・・・「陰」。雉は・・・「空」。

お供をした彼らは、宇宙であり自然の法則を表しているわけだ。宇宙の法則を使うには、宇宙の心を知り、そこへ立ち返ることだ。

桃太郎は、そこへ立ち返って改めて現在の物質文明の現状を見てみた。そして、改めるべきところを改め、伸ばすべきところを伸ばしていった・・・すると、大きな平和が得られた・・・というわけだ。


このまま我欲に振り回され続ければ、人類も鬼が島の鬼と同じように、大自然、大宇宙の力によって・・・鎮められますよ・・・ということ。

桃太郎になるのか、それとも鬼のままで快楽に耽るのか・・・。今、それを問われているように思うわけです。


 

2012年12月22日土曜日

木星がキレイ

こないだの衆議院選挙について・・・何か書こうと思っていた・・・が、何故か気が乗らない。

しばらくは自民党も表立ったことは出来なくて、憲法改正やTPPなどの話しもあまり語られそうもなく・・・各メディアも出さないかもしれない。しばらくはおとなしくしておけ・・・という指示が、どこかから出ていても不思議ではないが・・・参院選まで。

ちなみに「原発」と「TPP」はセットだ。だから、どちらかを賛成、どちらかを反対・・・というのは、両方とも賛成と見て間違いない。

選挙結果を眺めてみると・・・行くべき人が、ことごとく引き寄せられて行ったなぁ・・・と、天の計らいとはすごいなぁ・・・と、改めて感心している。

彼らの行先は本道ではなく枝道で・・・その先には何も無い。過去の方向へ意識が向いたまま離れなかったのだろう。

彼らの後をついて行くと大変なことになる。過去へ顔を向けたまま、大きな変化の流れから取り残されてしまった人々だから・・・。その先には滅亡しかない。

彼らとは、もちろん勝った側の人々だ。

票数や投票率や・・・おかしなところは多々あるけれど、たとえ不正がホントに行なわれたとしても・・・そういうことを行なった人々の動きもすべて天の計らい・・・の内に入っているのだろう。


ところで、話しは変わるが「惑星ニビル」・・・という褐色わい星の話しがある。

「あんな話しは煽動だよ」・・・と思っている人もいるだろうが、わたしとしてはどうも気になってしかたがない。

ずいぶん以前からわたしにマトワリつく・・・ざわざわとした何とも言えない感覚と、耳鳴り。これは何?と、何度となく探ってみるけれど・・・ちっともわからない。

ニビルの影響?・・・なんて考えてしまう。

いや、別に心配しているのではない。もしニビルがホントならば・・・つまり老後の心配はしなくてもいい・・・ということになるわけだ。

実は、ありがたい話なのである。
あの世に逝くのが、早いか遅いかっていうだけの違いだ。大したことじゃない。


褐色わい星というのは質量の少ない星だ。だから遠いむかしに小惑星帯の軌道上を移動していた・・・という星が、ニビルと衝突して砕け散った・・・という話しはつじつまが合わない。

砕け散るのは質量の少ないニビルの方だろう・・・とも思う。

しかし、小惑星帯に突っ込んで、その小惑星を弾き飛ばす・・・ということは考えられる、弾き飛ばされた小惑星が地球に飛んできてもおかしくはない。

ようは、ニビルという星が実際にあるのかどうか・・・という話しなのだ。

「ニビル」とは「交差」するという意味で、たしかに南北の軌道をとるニビルは、他の星の軌道と交差する・・・けれども、これは「縦」社会から「横」社会へのへシフト・・・「ポールシフト」を意味しているとも取れないこともない。

ただ、最近の異常気象はただごとではない。それに、日本列島が動いているのは間違いない。
宝永の大地震から換算して、南海トラフ地震の周期が・・・もうすぐやって来る。

ありゃりゃ・・・これはまさしく、老後の心配よりも今の喜び優先だ・・・うへへ。
いずれにしても、来年の大きな変化は逃れられないだろう。

後悔のない生き方をする方が大事だと・・・本気で思っている。それには、こころの内から湧き上がる「良心」に従うこと。そういう姿勢こそが、未来へ向かう・・・姿なのだと思う。

保身や欲望や、権威や名声や・・・そういうもので心を曇らせているヒマはない。いかに自分に正直になれるか・・・そういうことなんだと思う。

魂の願いに忠実であること・・・簡単なようで、難しい。


惑星ニビルのもたらす災い・・・と関係があるといわれているヨハネ黙示録だが・・・その中に「七つのラッパをもつ七人の御使い」という部分がある。

7×7=49

先天17神と後天32神の合計・・・ともとれる・・・が、どうだろう。

「7」という数だけ見てみると・・・この「七」は先天17神が生まれる順序「ウ・アワ・オエヲヱ」までの「七」・・・かな。

この七神の言霊が生まれて後、創造八神「チ・Yi・キ・ミ・シ・リ・ヒ・ニ」が生まれ、そのあと「イザ!!」具象化・・・として「イ・ヰ」・・・「イザナギ・イザナミ」のふた柱の親神が動き出す。

これで17神となるわけだが、創造八神は固定されてるわけではなく、あちこち移動しながら「子音」としての後天32神を生み出してゆく。

古事記の内容に照らし合わせてみると・・・ちょうど、イザナミ神が身罷り、その遺体のまわりをイザナギ神がオイオイ泣き叫びながらウロウロしている場面にあたる。

ラッパが吹き鳴らされるヨハネ黙示録の場面・・・そのヤカマシさが似ているような、似ていないような・・・。

西洋ならば「カバラ」かなぁ・・・。

いやいや、想像するのは楽しいけれど・・・キリがないので、この辺でやめておこう。どうせ2月14日までには、なんとなくその実態がわかるだろう。

このところ毎日見上げている夜空・・・今夜も木星が、キラキラきれいだ。






2012年12月15日土曜日

美生物の国



直感の鋭い人は気が付いてると思うが、今回の選挙はけっこう大事な出来事になる。

固まってしまった頭を、どれだけほぐして・・・こころの内の良心を見出せるか・・・組み直せるか。

いずれにしてもウズはすでに呑みこみ始めているので、どっちに転んでも来年には大きな変化が待っている。

どういう変化が・・・どういう道が現われるのか楽しみでもある。


この国は微生物の国。だから神社には必ず「杜」・・・「自然」がある。

微生物は素粒子に近いので、ある意味「カミ」に近いとも言える。現に発酵という「カミ」のハタラキもする。

つまり、それがフリーエネルギーの正体・・・なのかもしれない、というわけだ。

彼らは人間の目に見えない世界で生きている。
だから人間の耳に聞こえない「音」も聞こえている・・・かもしれない。

人の・・・こころの声・・・とか。


世間では知られていないが、放射性物質の放出する放射線・・・これを微生物は無力にする力を持っている。

言い方を変えると、荒れ狂う放射性物質をそっと包み込んであげることが出来る。

ただ、それが放射能の危機から人類を救う・・・とは断言できない。何故なら、フリーエネルギーは人の意識エネルギーとも深い関係があるからだ。

日月神示がいう「半霊半物質の肉体」とは、外からの影響というよりも、きっと内からの変化の方が大切なのだと思う。

・・・人の意識。集合意識・・・?
多くの人々の意識が同調し始めて・・・やがて「原爆でも水爆でもビクともしない」肉体と・・・なるのか・・・な?


微生物による放射能の無力化も、物質文明の・・・資本主義などの質の低い欲望から発したものならば、たぶんよい結果は出ないと思う。

原発の放射性物質は欲望のはてに生み出された・・・人間に例えるならば、愛されることもなく産み捨てられ、グレることしか生きる道がなかった子供のような存在だ。

質の低い欲望は彼ら・・・放射性物質たちのこころをエグる刃物でしかない。

今はまだ、そんなものしか生み出せない状態なので、第一線に現われることが出来ないのだろう。

けれど、一部ではあるが着実に微生物による放射能の無力化は行なわれている。

人々の意識が変わった瞬間に・・・パタパタパタっと、何かすごい変化が広がってゆくような気がしている。それが来年・・・2013年というわけだ。


「意識」は「石の気」・・・「イソの気」「五十の気」。五十音のそれぞれの気・・・ともとれる。意識が変わることは五十音の配列が変わること。意識エネルギーの流れが変わることだ。

こころの次元が変われば、見えてくる世界も変わってくる。
エネルギーの流れが変われば、微生物たちの動きも変わってくる。

人々の意識が変わるキッカケが「大難」ではなく、徐々に変化してゆく「小難」であってほしいと願ってはいるが・・・明日の選挙・・・その先の未来への道が開かれる日。

2012年12月8日土曜日

マコトのコトバ


「日本を取り戻す」とは・・・なんとも後ろ向き・・・で、さらに「動かすのは決断です」にいたっては・・・支離滅裂。

「未来への約束」・・・が、いちばんまともかなぁ・・・未来の日本をどうするのか、が政治としての姿勢だろう、やっぱり。

・・・などと、思いながら選挙戦をながめている。

人類の歩みの中・・・そのどこかで「概念」というものが生まれた。きっと「カミ」を実感できなくなった頃だろう。「カミ」と分離してしまったので、真実の「コトバ」を見失ったのだと思う。


たとえば・・・「日本を取り戻す」。

この国では「日本」というものが何なのか、よくわからない。それは「神話」を教えることが無くなったからかもしれない。

神話の奥深さを、子供の頃に感じることは大事なことだ。

「ヤマトゴコロ」によってまとまった国でありながら「国防軍」だの「ミサイル防衛」だのを口走っているようでは、残念ながらそれはホントの日本ではない。

取り戻すべきものを間違ってはいけない。そんなことになったら、それこそご先祖様に申し訳が立たないだろう。

ここは「大和」の国。「やまと」は「たいわ」。大きな和・・・の国だ。「たいわ」と「対話」が同じ発音になるのは、偶然じゃない。


ついでに・・・「動かすのは決断です」は・・・何を動かし、何を決断するのか・・・さっぱりわからない。

右へ動くのか、左へ動くのか・・・。前へ?後ろへ?それとも斜め?・・・「動かない」という決断だったらどうするの・・・などなど。

これは文法的にどうなのか、とか・・・どうでもいいことまで考えてしまう。


ところで、人は概念的な言い回しについついくすぐられてしまう。「平等」「平和」「人権」「正義」・・・ところが、近代の戦争は時としてこういうコトバに導かれてきた。

「平等」を勝ち取るために戦い。「平和」な社会をつくるために争い。「人権」を守るために闘争し。「正義」を知らしめるために侵略する。

これらのコトバの持つエネルギーは・・・何故人を争いへ導くのだろう。


古事記の「言戸(ことど)度(わた)し」において、千引きの岩を挟んで行なわれたイザナギとイザナミのやりとりは、この概念的なコトバの流布のことだという。


イザナミ「愛(うつく)しき我(あ)が汝夫(なせ)の命(みこと)、かく為(せ)ば、汝(いまし)の國の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ。」

イザナギ「愛(うつく)しき我(あ)が汝妹(なにも)の命(みこと)、汝(いまし)然為(しかせ)ば、吾(あれ)一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)の産屋立てむ」    (岩波文庫「古事記」より)


「人草」とは「霊(ひ)と草」・・・言霊のことだ。

「一日に千の真(まこと)のコトバを、概念のコトバに変えてやる」
「それならば、千五百の真(まこと)のコトバを産み出してやる」・・・というわけだ。


それでは・・・「真(マコト)のコトバ」とは?

見知らぬ・・・地球の裏側の国で起こったことに涙したり、感動したりするのは何故だろう。赤ちゃんの泣き声や、人の笑い声が人類共通なのは何故だろう。

それは・・・すべては根源的な「何か」につながっているからだ。みんな同じ根っこにつながっている。

人類だけじゃない・・・すべて。すべてが絶対的な「何か」につながっている。

その絶対的な「何か」を・・・わかりやすく「愛」と呼ぶならば・・・絶対的な愛。愛から生まれるコトバ。そのコトバが産み出すハタラキ・・・それを「カミ」と言う。

真(まこと)のコトバには、つまり「カミ」が宿る・・・というわけだ。



2012年12月1日土曜日

ツムガリの太刀

わたしが世間の情報を知るのはほとんどネットから・・・で、その中に流れる空気感・・・のようなものは、如実に男性性中心の・・・あるいは、男性性が造り上げた・・・世界観が崩れてゆく姿だ。

ふと・・・琵琶湖は日本の子宮・・・ということを思い出す。

「チカラ」たち・・・は最後の悪あがきをしているのだろう。さっさと散ってほしいものだ。いさぎよさ・・・は、この国の美徳のひとつだと思う。


少し前、何故か古事記のヤマタノオロチの・・・あの場面を読み返していた。

ヤマタノオロチは「八」の判断力のこと・・・ならば、八拳剣の判断力で動く生き物・・・と言えるかな?

「八」とは・・・「アカサタナハマヤラワ」の十音から、主体の「ア」と客体の「ワ」を失った、八音。

昔の人は自分のことを「吾(アレ)」、あなたのことを「我(ワレ)」とよんでいた。だから・・・「ア」と「ワ」・・・「アワ」。「泡」「阿波」・・・。

・・・このことだけでも、いろんなヒラメキ・が生まれる・・・が、それはまたいつか・・・にしよう。

主体を失い、客体も失ってしまうと・・・そうなると何処へ向かっていいのか、はたまた自分が何者なのかもわからなくなってしまう。

暗闇で右往左往していると・・・「こっちだぁ!!」・・・と、何者かがタイマツをかざす。ついて行くよね・・・やっぱり。それを「依存」というけれど・・・。

酩酊したヤマタノオロチをスサノウは十拳剣で退治する。十拳剣。これはもちろん「アカサタナハマヤラワ」という十音。完璧な判断力。

言霊の勝利・・・というか、コトムケヤワス・・・ということか・・・。

オロチノの「尾」から出てくる「都牟刈りの太刀」・・・ここでは「剣」ではなく「太刀」となっている。

「絶ち分ける」と「繋がる」という「剣」としての判断力ではない・・・ということならば・・・「断ち切る」ということを現しているのか・・・。

その部分を「岩波文庫」より引用してみる・・・と。


・・・その中の尾を切りたまひし時、御刀(みはかし)の刃毀(か)けき。ここに怪しと思ほして、御刀(みはかし)の前(さき)をもちて刺し裂きて見たまへば、都牟刈(つむがり)りの太刀ありき。故、この太刀を取りて、異(あや)しき物と思ほして、天照大御神に白(もう)し上げたまひき。こは草薙(くさなぎ)の太刀なり。


「・・・その中の尾」・・・「尾」とは後ろのことで、五十音図でみると「ワヰウヱヲ」のことだろう。だとすると・・・「その中」とは「ウ」のことになる。

「御刀の刃毀けき」・・・毀れた・・・欠けたわけだ。「御刀の刃毀けき」の「御刀」とは「十拳剣」のことだ。つまり五十音図といってもいい。

ずっと以前に「ウ」のことはちょっとだけ書いたが・・・「ウ」だけが陰陽のパートナーがいない。「ウ」とは・・・根源的な感覚、五感、欲・・・などの次元。

ここにちゃんと表されているわけだ。

・・・ということは、この「都牟刈りの太刀」が重要になってくる。

「都牟刈りの太刀」の正体・・・もう少し探ってみよう。