2012年7月28日土曜日

自立機運



先ほどまで、ニコ生で孫崎氏×天木氏の対談を見ていた。戦後、いかにこの国の自立は拒まれていたか・・・その拒んでいたのが、実は自国の者だった・・・という。

だが、それはこの国の国民性をよく理解した政策をGHQは行なっていたからだろう。財界やマスコミを使って、実に巧妙だ。

けれど3.11以降、その流れも大きく変わりつつある。今まさに日本中で自立気運が高まっている。官邸前のデモは、その象徴的な例だ。

自立とは自らの「良心」に従って生きること。お金を稼ぐことでも人を集めることでもない・・・自分の「良心」に従えるか、貫けるか・・・。

「良心」がどういう作用を人々に及ぼすのか・・・その作用、反作用の現われ方を言霊は、前もって教えてくれる。だからこそ言霊は「母親」に喩えられるのかもしれない。数霊はその背中に、言霊はその言葉に・・・人としての生き方を学ばせてもらえる。

言霊は、この国だからこそ今に残った・・・のだとわたしは思っている。だからこそこの国は重要なのだ。世界を感謝系のエネルギーで満たせるのは、この国において他にない。

それにしても、わたしたちの自立を拒もう・・・という動きをあちこちに感じる。よほど自立してもらいたくないようだ。それとも、もっと大きな学びを用意しているのか・・・。

揺れる振り子が、片側に来たときに一瞬静止するように・・・極まった闇から光へ転換するその極で、ドロっと・・・数年間、止まってしまうような気さえする。

その静止状態をつくるために用意されているものに・・・さまざまな法律がある。マイナンバー(背番号制)、共謀罪、ダウンロード規制、消費税増税、TPP・・・。

そうそう、今朝から始まった福島での除染などは、ほんとに胡散臭い。

いまだに原発では放射性物質が大量に出続けているのに、そこへ除染はないだろう。ただちに再除染しなければならない理屈は子供でもわかる。

そのたびにお金を払う・・・ゼネコンにお金を流すために開始した除染ということだ。

微生物による放射能の無力化という方法を知らないはずはない。何をそんなにあせっているのだ。

除染は、生態系までも破壊する。自然と闘うことは愚かなことだ。自然に感謝こそすれ、牙をむいてどうするというのだろう。

2012年7月21日土曜日

「永遠」の命



わたしたちの身体は目に見えないもので出来ている。同時に、わたしたちの意識も目に見えないエネルギーで揺れている。

目に見えない命は、ゆらゆらと揺れながら・・・目に見えない世界で「永遠」に続いてゆく。そう、目に見えないものと同じように、わたしたちの命も「永遠」に続く。

「永遠」はこの世の言葉で正確に表現できない。「永遠」は動かない。動かずに、じっとわたしたちを包んでいる。

さらに言うと、わたしたち一人ひとりがそれぞれ「永遠」の命を持っているわけではない。わたしたちは「永遠」の中の・・・一部の「永遠」だ・・・ちょっとややこしいか。

銀河系が宇宙の一部でしかないように、わたしたちも全体の一部・・・つまり「永遠」の中の「個」としての「永遠」だ。

それでも「永遠」である以上、わたしたちは「永遠」を使うことが出来る。それをフリーエネルギーという。

フリーエネルギーは「永遠」なので無くなることがない。無くならないから、誰もお金を払わなくていい。フリーエネルギーを使って食べ物をつくると、食べ物も無くならない。だから、飢餓や奪い合いも存在しない。争いもおこらない。

上古代の人々は、そのことを知っていたはずだ。「永遠」についても、かなりの所まで読み解いていたと思う。

ところが・・・「永遠」は「永遠」に拡大するので、次の「永遠」へ向かおうとする・・・もっとややこしい。

次の「永遠」に向かうために・・・遠い昔「永遠」は、人間に「限界」を与えた。楽園は罪だと教えたのだ。「邪」である。邪気が入り込んで、分離が始まった。

古事記でいうと・・・「コノハナサクヤヒメ」と「イワナガヒメ」の部分かも・・・。ニニギノミコトは彼女たちを「美」と「醜」という邪気の目で見てしまった。そのときから人間には寿命という、命と肉体の分離が生まれた。

人々がバラバラになっても、意識の高い人々は「調和」しようと努力したが、分離のために発生した不安と恐怖のエネルギーが地球を覆っていった。

さらに不安と恐怖のエネルギーをエサとする何者かのチカラが後押しをして・・・人間の意識世界はとんでもない彼方まで流れ着いてしまった。

けれど、宇宙の法則がその暴走にブレーキを掛け始めたので、やがて引き戻しが始まる。

「永遠」を理解している人々は、そのことを感じているはずで・・・引き戻しのチカラが少しでも穏やかになるように・・・さまざまな場面で動き始めているはずだ。

今、世界では何が起きても不思議ではない状態だが・・・「永遠」は、わたしたちが存在しようが消えてしまおうが・・・そんなこと気にしない。「永遠」は動かないのだから・・・。

わたしたちの方が「限界」から「永遠」へと・・・「分離」から「調和」へとシフトすれば、さらに拡大するだろう「永遠」とともに・・・ひょっとしたら、肉体を持ったまま「永遠」の命を生きれるかもしれない・・・ぞ。


2012年7月14日土曜日

不思議な国


この国の神社ネットワークは他国に例を見ないが、これは大陸の文化が入ってくるより以前からこの国に存在していたはずだ。単純に考えても奈良・飛鳥以前には、すでに神社のネットワークが存在していた・・・と見るべきだろう。でなければ、大陸にも「鳥居」が存在していなければならない。

天武天皇が国書を編纂しようとされたのは、この国の埋れた何か・・・すでにその頃には、上古代の文化を理解・解釈できる人はほとんどいなかったと思える・・・を残そうとされたからではないか。天武天皇は吉野から伊勢へと逃れられた過去がある。それは古代の文化を残す人々と接する機会が多くあった・・・ということでもある。

古事記には言霊・・・つまり、宇宙の法則が記されている。フリーエネルギーについて・・・と言ってもいい。それは「無限」の仕組みだ。

上古代の・・・今風に言えば、超古代の科学(智恵)を神話のカタチとして残した。それは最良の方法で、そのお陰で現代まで残った。まさに奇跡だろう。これはその編纂に関わった太安麻呂や稗田阿礼たちのチカラと言ってもいいと思う。

大陸から支配的な・・・縦の文明とわたしは表現するが、チカラの文明が押し寄せてきたときに、上古代の人々は地下に潜ったのではないだろうか。何故なら、彼らは宇宙の理(ことわり)を知っていたからだ。

それはフリーエネルギーの正体のためでもあり、止めどない宇宙の願いでもあったろう。

宇宙には中庸に戻そうとする働きがある。何かに偏れば、それを元に戻そうとするのだ。たとえば、海が不純物に澱み始めると、自然は大きな渦をつくり海水を攪拌する。・・・台風だ。攪拌し、空気を中に取り込み、海水を再生させようとする。

海を汚せば海は荒れる。大気を汚せば大気も荒れる。つまり、天変地異は地球の浄化のシステムといえる。もちろん、人間のネガティブな感情もそういう宇宙の法則には逆らえない。

上古代人は地に潜り「イノリ」によって、チカラの文明に取り込まれた人々の争いや欲望の「気」を中和しようとしたのだろう。いつの日か、地上に暮らす人間たちが宇宙の理(ことわり)の存在に気づくことを信じて・・・。

そういえば、上古代の人々は「気」を感じ取ることが出来た。その「気」の流れをカタチに・・・平面に表したのが「流体文字」で、そこから「かな文字」が生まれたのかも・・・。

話しを元に戻すと・・・日本は中庸の国で、それは宇宙の理(ことわり)を現してもいる。

国民性にも現われていて・・・この国は2回の原爆実験(種類の違う爆弾を使ったのは、それぞれの影響を調べるためだとわたしは思っている)をされ、なおかつ都市への爆撃で10万人以上の民間人を無差別に殺傷されていながらも、アメリカと仲良くできる・・・信じられないほどだ。

ホントに不思議な国なのだ、この国は。

実は、これこそが中庸であり、人類が最終的に目指すべき「調和」でもある。その「調和」こそが、この次元における「愛」の最高の形。それは同時に、宇宙の願いでもある。

ところがテレビや新聞は何故かこの「調和」を嫌うように、いつも不安を吹聴しているが・・・おまけに政局はドロドロと溶け始めているようで・・・けれどそれは、先ほどの海の浄化と同じで「攪拌」が必要なのだろう。

政局の攪拌台風がどれほどのものか、ちょっと気になるが・・・上古代の人々の「イノリ」は、時空を越えてわたしたちの内なる宇宙にも届いているはずだ。不動心が芽生え、良心に従う・・・そういう人が確実に増えている。

政府は壊れても、この国はけっして壊れない。

言霊のことを知れば知るほど、深い感謝と静かな安心感があふれ出してくる。


2012年7月7日土曜日

ヒッグス粒子発見に思うこと


前回の臨時更新の中で・・・

「思い」がこの世に具象化するまでには・・・「先天十七神(17音)」と「後天三十二神(32音)」プラス「一神(1音)」の力を必要とする。

と、書いた。その翌日くらいに、素粒子の「ヒッグス粒子」の話しが届いていた。なんとも不思議な偶然だと、びっくりしている。

最初に質量を与えた粒子ということで「神の粒子」と呼ばれているらしい。「神」としての意味はたぶん違うだろうけれど・・・わたしの感じていることに近い表現だ。

日本経済新聞の社説を引用させてもらうと・・・「素粒子は宇宙誕生の直後に生まれ、最初は質量をもたずに光速で飛び回っていた。そこに水あめのようにまとわりつき、質量を与えたのがヒッグス粒子とされる。」

宇宙には最初「陰陽」がなかった・・・つまり質量がなかった。「ゼロ」だった。その宇宙を「愛」と言い換えてもいい。「愛」の質量は「ゼロ」だ。陰陽を持たない。

その「愛」に「情」が加わって初めて質量が生まれる。質量が発生すれば同時に「ハタラキ」が生まれ、この「ハタラキ」のことを「神」という。

・・・だから「神の粒子」・・・ちょっと違うような気がしないでもないが、まぁいいか。

「情」をかける・・・とは、「質量」をかける・・・ことで、「質量」をかけるとは、「圧」をかけること。「思い」の「圧」・・・をかける。密度が変われば「ハタラキ」が動く・・・「神」が動く。

言霊数での「17」は・・・「と」だ。これは「戸」のことかな? 岩戸の戸・・・「17」が開く?

言霊は宇宙レベルの科学だ。それは間違いない。今、人間の科学は言霊の足跡を証明しようとしている・・・のかそれとも、別の形で真実を捉えようとしているのか・・・「いのち」の所在をも見つけられない人間の科学では真実に届きそうにない。

人間の科学は産業なくして成り立たない。新たな発見は新たな産業分野を産みだすわけだ。けれど、産業のシステムは人を幸せにはしてこなかった。それは歴史をみれば・・・歴史どころか今の世界の現状を見ればよくわかる。

そのことについて、実にわかりやすい記事が、さきほどの日本経済新聞の社説の次の部分にあるので引用してみる。

7月6日 日本経済新聞社説から引用

前文略

CERNは日本からの140億円を含め、総額1兆円を投じて1週27キロメートルの巨大な加速器を造り、数千人の科学者が参加した。別の粒子を猛烈な勢いで衝突させる実験を千兆回以上繰り返し、ヒッグス粒子の痕跡を探し当てた。

自然の因果を説く理論を築き、実験で裏づけ、理論をさらに工業製品に応用する。基礎科学はこうして技術の進歩に役立ってきた。新粒子を産業応用できるかは未知数だが、理論が実験でほぼ確認され、基礎科学は面目を保った。

理論の土台作りではノーベル賞を受賞した南部陽一郎氏らが貢献した。実験には日本から科学者が100人以上加わり、企業も加速器の部材などを提供した。歴史的な発見に日本が深くかかわったことは誇りにしたい。

自然界はなお不思議にあふれている。宇宙は「暗黒物質」とよばれる未知の物質などで満たされているとされ、いまの理論では説明できない。今回の成果で物理学は新たな出発点に立ったといえる。

一方で、その解明に挑む実験装置は巨額の資金が必要だ。基礎科学の重要さは変わらないが、先進各国の財政が厳しいなか、研究テーマの選別が不可欠だろう。

注) CERN・・・欧州合同原子核研究機関

引用終わり

・・・理論を築き、実験で裏づけ、理論をさらに工業製品に応用する・・・わけだ。そうしてきた結果が、不毛の大地を生み出し、飢餓を呼び、難病奇病に苦しみ、途上国への搾取を繰り返し・・・というシステムを作り出してきた。

最後に述べられている・・・先進各国の財政が厳しいなか、研究テーマの選別が不可欠だろう・・・ということは、お金にならない研究は必要ないということだ。逆に言うと・・・ヒッグス粒子はお金になる・・・か?

せっかくの夢のある発見も興ざめしてしまうようで申し訳ないが、そんなふうに捉えてしまうわたしの根性がひねくれているのだ。

人間はその技術力に溺れてしまうときがある。まずは技術力よりも「こころ」の進化が先だと思うわけだ。まして、素粒子の領域となれば人間の意識エネルギーにも影響する。ひとつ間違えば、とんでもない作用を引き起こす・・・引き寄せる可能性がある。

・・・というよりも、地球が・・・宇宙が反作用を起こすかもしれない・・・。

「こころ」の進化が見られないうちは素粒子の解明もおぼつかないとは思うが・・・おぼつかないとは中途半端ということで・・・たとえば、ホントに超古代文明があったとして・・・ムーやアトランティスや・・・それらの文明が自らの中途半端な科学力に滅んでいたとしたら・・・。

早く多くの人々の「こころの戸」が開いてほしいと思う。「こころの戸」が開くとは「不安」が無くなるということだ。「不安」や「恐怖」が消滅するということだ。

そういうものを消滅させるために言霊のエネルギーを使う。そうすると、やがてみんな「自由」になり「調和」が広がるのだ。

2012年7月2日月曜日

「君が代」についての補足(臨時更新)


「君が代」が護り歌であることについて、少し言霊から説明しておこうと思う。

「思い」がこの世に具象化するまでには・・・「先天十七神(17音)」と「後天三十二神(32音)」プラス「一神(1音)」の力を必要とする。

詳しくは言わない。今は「君が代」についてだけ述べてみる。

和歌が三十一文字なのは、歌い終えて最後の三十二文字目に自分の「思い」が入るためだ。見えない思い・・・を載せて歌う。

だから、歌(思い)をくれた人への返し歌・・・という文化が生まれた。

つまり、三十二音の絵の中にひとつ分だけ窓が開いているわけだ。そこに自分が入るのだ・・・人も神・・・余韻と言ってもいい。

ところが「君が代」は、最初から三十二音なので窓がない。窓がないから入れない。

誰も入り込めないように歌われているのが「君が代」なのだ。誰も入れないから「護り歌」となる。

あたら疎かには出来ない歌なのだ。