いつの日にかネットの世界でも、発信者の文章、言葉を見ただけでその人物がどういう人物なのか・・・というのが、感覚的にわかる時代がくるのだろう。ずっと先だろうけど・・・。
言葉は、発信者が完成させるのじゃない。受け止めた受信者のこころで完成する。
なんでもそうだけれど・・・受け手が何を感じ、こころのどこに収めるかで発信者の質が・・・受け手の中で決まる。
発信者の自覚も必要だが、受け手の自覚は更に必要なのだ。感性と言ってもいいし。度量と言ってもいい。
気がつかないうちに孤立していたり・・・悪人に仕立て上げられていたり・・・おだてられ持ち上げられ、自分を見失ったり・・・。
それはネット世界の・・・仮想世界の落とし穴でもある。
ところで、特定秘密保護法の全文が報道にも出たが、法律の文章もまた受け手の解釈で変化するもののひとつだ。
だからこそ法律といのは、生活の安全を守る・・・という理由で、人を拘束し、利用し、閉じ込めてしまうことも出来るわけだ・・・公的な力で。
あの共謀罪の部分がわたしは気になっている。特に「共謀罪」を自首すれば免罪される・・・と言う部分。
何者かの意を含められた者のウソの自首によって、無罪でありながらすでに拘束されている人物を貶めることが・・・できないか?
いずれにしても、なんと時代錯誤の法律なのだろうか・・・と、あきれてしまう。後ろ盾を無くすことが、よほど怖いんだろう。何も手放したくないのだ。
先が細くなって、どんどん狭くなって・・・そんな世界だ。キリキリと、気づかぬうちに闇の中にはまり込んでゆく。
もう彼らは、そのスパイラルから抜け出すことが出来ないんだろう。気の毒な人々。
関西で今はやりの偽証は、有名ホテルレストランでの食材偽証・・・いや、疑惑か。つまらなすぎて、こちらのニュースもあきれてしまう。
だまされたぁ~・・・と、笑い飛ばせばそれで済む話だ。
たとえ名も無い食材でも、その食材はイノチを宿していたのだ。だから、おいしかったぁ~・・・という気分のままでいるのが、一番平和なのだ。
ところで、こういうニュースは、どういう経路で表に出てくるんだろう・・・と勘ぐってしまうのは、わたしだけだろうか。
スピンコントロールのために、あちこちに転がしてある爆弾のようなものなのか・・・な。爆発させすぎて・・・その爆弾の数も減ってきたのかもしれない。
とにかく、ニュースでも法律でもネットでも、受け手の自覚は必要だと思う。特に今のようなクチャクチャに詰め込まれた情報の中ではなお更だろう。
自分の「内」にある「ス」のこころで感じ取れればいいけれど・・・なかなかその「ス」の声が聞こえない。
「ス」の声は魂の声。「ス」の世界ではみんながつながっている。みんなでひとつ。みんながひとつ。
だから、人を疑うことは自分を疑うこと、人を貶めることは自分を貶めること、人を拘束することは自分を拘束すること・・・となる。
時間という無限の流れの中で、空間という方向性をもった世界を生きるわたし達には、だから「ス」の世界(イノチ)から託された大きな使命がある。
それは「調和」。いかにして「大調和」へ向かうのか・・・。
引き合い、押し合い、潰しあい・・・ながら、大きなウズ(リズム)の果てにやがて次元を超えてひとつになる・・・はず。そういう世界ができる・・・はず・・・たとえ一部分だけでも・・・。
それが、わたし達の「ミライ」。未だ見ぬ、ウズ(ラセン)の果てのイノチ。
「時間」は前にしか進まない。「前」とは、自分の顔が向いている方向・・・見つめている方向のことだ。その方向へ「時間」は進んでゆく。
いろいろと錯綜し、めんどくさい話しが溢れているけれど・・・みんなちゃんと前へ進めればいいなぁ・・・といつも思っている。
キリキリと進む人、ガタガタと進む人、ズンズとン進む人、フラフラと進む人・・・それぞれの生き方で、それぞれの道を、それぞれに認め合いながら進めればいいなぁ・・・。
それはわたしの祈りでもある。
2013年10月26日土曜日
2013年10月19日土曜日
見えない世界・・・からの
さてさて、大きなウズから小さなウズまで、目に見える世界・・・目に見える社会では目まぐるしい日々が続いている。
この世はそんな激動のトキではあるけれど・・・なんと、見えない世界での建て替えはすでに終わっているらしい。
そう言われても、見える世界に生きているわたしたちにとっては、そういうことはちっともわからない。
見えない世界が先で、見える世界が後・・・というけれど、見える世界に生きているわたしたちにとっては、それでもやっぱり見える世界の方が大事なんだと思う。
見える世界での生きる姿勢が大事なんだ。その姿勢が見えない世界に影響を及ぼす。
見えない世界の存在たちは、きっと自分のため・・・だけでわざわざこの世に生まれてくることはない・・・と思う。
彼らこそ・・・全体のゆがみを感じて、そのゆがみを自らの行為によってなんとかしたい・・・と思ってこの世に産まれてくるんだろう。
そのために肉体を持ち、やっかいな時間と空間に縛られながらも、純粋な使命感を胸に大いなる勇気をもって産まれてくるのだ。
産まれてきた以上は・・・だからこそ、この世で生きている自分を大切にしなければならない。彼らの勇気を無駄にしてなならない・・・と思う。
凛!!・・・として生きてゆかなければ・・・と思う。
ところで、世の中に予言というものが存在する。この予言とは、いったいどういうふうに予言者のココロに届くのだろう。
はっきりと、言葉や映像として直接届けられるのだろうか。
それとも・・・その言葉や映像は、見えない世界からの波動を受けて予言者のココロが、予言者自身の経験や知識や感性と響き合って生み出されるのだろうか。
ココロのフィルターは存在しないのか、フィルターを透してくるのか・・・わたしは予言者ではないし霊能者でもないので、その違いがよくわからない。
わからないけれど、いつも考えてしまうのは・・・この世に具象化した出来事は、見えない世界における、いったいどういう波動がカタチになったものなんだろう・・・ということ。
なぜそんなことを考えるのかというと、最近、地震を始めとする天災の予言をよく目にするからだ。
確かにわたしもこのブログの中で、水の動きが顕著になる・・・というようなことを書いたけれど、それは縦の霊(火)と横の血(水)の関係から述べたもので、わたしの予知能力によるものではない。
言霊は宇宙的物理なので、それをひも解いて行くと、なんとなく・・・ではあるけれど感じてしまう。
けれど・・・たとえば地震学などの物理的調査や統計なのではなく、純粋に予言・・・お告げとして言葉や映像が浮かぶのは・・・いったいどういう波動がそうさせているのだろう。
見えない世界の存在が、見える世界の誰かに波動を送るのは知っている。よくわかる。ただ、その波動がこの世に届いたときに・・・どういう具象化をするのかがわからない。
天変地異などはイノチにかかわることだ。つまり・・・明日、どうなるかわからないぞ・・・という感じがする。覚悟は出来ているのか? それで大丈夫か? ・・・というような感じがする。
これはまさしく・・・「ス」に還るトキがきた・・・というような、あるいは自らの「ス」を取り戻すトキがそこまで来ている・・・という、見えない世界の波動・・・ともとれる。
すでに建て替えが終わった霊界の波動が、いつまでも前世紀のままのこの世に届くと・・・終末感のような雰囲気に具象化してしまうのかもしれない。
大掃除のあとのゴミ収集場所のような・・・。
建て替えが終わって、霊界がすっきりしたのなら、その次はこの世・・・ということになる。霊界が先でこの世が後・・・なのだから。霊主体従。
知りたくない・・・今のままでいい・・・と思って目をつぶっていても、だからやっぱり、どこかで「ス」に出くわしてしまうのだ。
気がつけば・・・そんなニュースばかりである。
この世はそんな激動のトキではあるけれど・・・なんと、見えない世界での建て替えはすでに終わっているらしい。
そう言われても、見える世界に生きているわたしたちにとっては、そういうことはちっともわからない。
見えない世界が先で、見える世界が後・・・というけれど、見える世界に生きているわたしたちにとっては、それでもやっぱり見える世界の方が大事なんだと思う。
見える世界での生きる姿勢が大事なんだ。その姿勢が見えない世界に影響を及ぼす。
見えない世界の存在たちは、きっと自分のため・・・だけでわざわざこの世に生まれてくることはない・・・と思う。
彼らこそ・・・全体のゆがみを感じて、そのゆがみを自らの行為によってなんとかしたい・・・と思ってこの世に産まれてくるんだろう。
そのために肉体を持ち、やっかいな時間と空間に縛られながらも、純粋な使命感を胸に大いなる勇気をもって産まれてくるのだ。
産まれてきた以上は・・・だからこそ、この世で生きている自分を大切にしなければならない。彼らの勇気を無駄にしてなならない・・・と思う。
凛!!・・・として生きてゆかなければ・・・と思う。
ところで、世の中に予言というものが存在する。この予言とは、いったいどういうふうに予言者のココロに届くのだろう。
はっきりと、言葉や映像として直接届けられるのだろうか。
それとも・・・その言葉や映像は、見えない世界からの波動を受けて予言者のココロが、予言者自身の経験や知識や感性と響き合って生み出されるのだろうか。
ココロのフィルターは存在しないのか、フィルターを透してくるのか・・・わたしは予言者ではないし霊能者でもないので、その違いがよくわからない。
わからないけれど、いつも考えてしまうのは・・・この世に具象化した出来事は、見えない世界における、いったいどういう波動がカタチになったものなんだろう・・・ということ。
なぜそんなことを考えるのかというと、最近、地震を始めとする天災の予言をよく目にするからだ。
確かにわたしもこのブログの中で、水の動きが顕著になる・・・というようなことを書いたけれど、それは縦の霊(火)と横の血(水)の関係から述べたもので、わたしの予知能力によるものではない。
言霊は宇宙的物理なので、それをひも解いて行くと、なんとなく・・・ではあるけれど感じてしまう。
けれど・・・たとえば地震学などの物理的調査や統計なのではなく、純粋に予言・・・お告げとして言葉や映像が浮かぶのは・・・いったいどういう波動がそうさせているのだろう。
見えない世界の存在が、見える世界の誰かに波動を送るのは知っている。よくわかる。ただ、その波動がこの世に届いたときに・・・どういう具象化をするのかがわからない。
天変地異などはイノチにかかわることだ。つまり・・・明日、どうなるかわからないぞ・・・という感じがする。覚悟は出来ているのか? それで大丈夫か? ・・・というような感じがする。
これはまさしく・・・「ス」に還るトキがきた・・・というような、あるいは自らの「ス」を取り戻すトキがそこまで来ている・・・という、見えない世界の波動・・・ともとれる。
すでに建て替えが終わった霊界の波動が、いつまでも前世紀のままのこの世に届くと・・・終末感のような雰囲気に具象化してしまうのかもしれない。
大掃除のあとのゴミ収集場所のような・・・。
建て替えが終わって、霊界がすっきりしたのなら、その次はこの世・・・ということになる。霊界が先でこの世が後・・・なのだから。霊主体従。
知りたくない・・・今のままでいい・・・と思って目をつぶっていても、だからやっぱり、どこかで「ス」に出くわしてしまうのだ。
気がつけば・・・そんなニュースばかりである。
2013年10月12日土曜日
的外れな・・・
秘密保護法・・・という、「報道の自由」の首を絞めるようなキソクにたいして、当の新聞やテレビから大きな声が聞こえない。
この状態が社会のカタチを表している。いわゆる行き詰った状態。息が詰った状態。新鮮な空気が吸えない・・・吸えないから声が出ない。
原発反対・TPP反対・オスプレイ反対・・・と声を上げる者はみなサヨクとみなす警察も同じ。みな同じ顔に見えているのだろう。
「組織」の空気には、その「組織」が強力で大きいほど「酸素」が少ない。ヨソの空気など必要としない。邪魔になるだけだ。
ちなみに、酸素欠乏症は脳細胞の破壊を招く。外に流れる新鮮な空気は、とても大事・・・ひとりの人間に戻って、おもいきり深呼吸してみればいいのに。
戦前の治安法では、30万人の人々が投獄され、数千人の命が失われた・・・というのに、何故同じような法律をつくろうとするのか・・・。
感覚として漂っているのは・・・今までたくさんウソをついてきて、これからもつき続けなければならない・・・と思っているんじゃないか・・・ということ。
ウソをつきつづけていれば、未来は消えない・・・だから、地獄のように狭い世界へ閉じ込めて・・・。
ところで、非常識というのは常識に非ず・・・ということだ。だから「非常識な人」というのは「異常な人」と言えなくもない。
けれど、その元になってる常識というのが、そもそも「的外れ」だとしたら・・・「的外れ」の常識を守っている常識人は「的外れな人」ということになる。
常識といわれるものをひとつひとつ解体して調べてみると、けっこう「的外れ」な常識があるので、世間には想像以上に「的外れ」な人が多いんだろう。
「異常な人」と「的外れな人」が言い争っても・・・たぶん、決着はつかない。
・・・と、いったい何が言いたいんだろう・・・わたし。
そのむかし・・・
おおらかで楽しい人達は、その言い争いを笑い飛ばして・・・みんなで「ワ」になってお酒でも呑んで、たちまち仲良しになってしまったんだろうけれど・・・臆病で悲しい人達はそうはいかなかった。
相手を突き飛ばして・・・二度と立ち上がれないように「チカラ」というものをぶつけたかもしれない。
突き飛ばされた方も、臆病で悲しい人達なら・・・きっと「ウラミ」が残って、未来へばら撒いてしまう。「カルマ」はそういうふうにして生まれた・・・。
ちなみに・・・
「八拳剣の判断力」の人たちは物質的欲望の出処を知らない。知らないから抑えられない。抑えられないから他人のものまで欲しくなる。そのために頭を使う。
「九拳剣の判断力」の人たちは物質的欲望の行き先を知らない。知らないから恐れきらう。滅私・・・に対して無感覚になり、神と信じるもののために命を投げ出す。
「十拳剣の判断力」の人たちは物質的欲望の出処も行き先も知っている。知っているから操れる。さらに・・・やがて自分は、見えない世界(表裏のない世界)へ還ることを知っているので自分にウソがつけない。
自分にウソがつけないから良心に生きることができる。肝がすわって、いさぎよい。
世間では、世の中は戦前の雰囲気に戻っている・・・と言われるけれど、わたしの感覚は少し違う。どうも室町時代の、あの幕府の存在感がしだいに薄れてゆく感覚に似ている。
もし、わたしの感覚が当っているなら・・・当てモンみたいで不謹慎だが・・・民生自治・地方自治の時代がやって来ることになる。
そういうこともあって、アメリカの情勢を興味深く見ている。
来年あたり、どこかの州が独自の地域通貨を打ち立てて独立・・・ということになるかもしれない。どこの州も連邦政府の借金の肩代わりはしたくないだろう。
後ろ盾であったアメリカに風穴が開けば、日本もただじゃ済まない。政府の影は、あの室町幕府末期のように限りなく薄くなってゆくかも・・・。
税金利権・・・をナリワイにしてしいる人たちも同じように・・・いや、彼らはひょっとすると、すでに逃げ出す準備が完了しているかも・・・。次の手を考えているはずだ。欲望は止まらないから。
さてさて・・・秘密保全法という、国民を分断してしまう法律なんかサッサと捨ててしまいなさい。
そんな縦のチカラの法律なんて、日本人の国民性にそぐわない。そぐわないどころか、国民性を壊す法律だ。日本をとりもどせない公約違反。
だいいち自らのウソを隠すために国民を利用してる場合じゃない。
横のつながりなくして復興などありえない。縦割り行政や資本優先など前世紀の常識は、そういうことで近々解体してしまう・・・とわたしは思っている。
そして、人々の願いは民生自治へと変化してゆく。それがこの国の人々・・・この国と深い縁をもつ人々の血の中に流れているサガ・・・なのだから。
この状態が社会のカタチを表している。いわゆる行き詰った状態。息が詰った状態。新鮮な空気が吸えない・・・吸えないから声が出ない。
原発反対・TPP反対・オスプレイ反対・・・と声を上げる者はみなサヨクとみなす警察も同じ。みな同じ顔に見えているのだろう。
「組織」の空気には、その「組織」が強力で大きいほど「酸素」が少ない。ヨソの空気など必要としない。邪魔になるだけだ。
ちなみに、酸素欠乏症は脳細胞の破壊を招く。外に流れる新鮮な空気は、とても大事・・・ひとりの人間に戻って、おもいきり深呼吸してみればいいのに。
戦前の治安法では、30万人の人々が投獄され、数千人の命が失われた・・・というのに、何故同じような法律をつくろうとするのか・・・。
感覚として漂っているのは・・・今までたくさんウソをついてきて、これからもつき続けなければならない・・・と思っているんじゃないか・・・ということ。
ウソをつきつづけていれば、未来は消えない・・・だから、地獄のように狭い世界へ閉じ込めて・・・。
ところで、非常識というのは常識に非ず・・・ということだ。だから「非常識な人」というのは「異常な人」と言えなくもない。
けれど、その元になってる常識というのが、そもそも「的外れ」だとしたら・・・「的外れ」の常識を守っている常識人は「的外れな人」ということになる。
常識といわれるものをひとつひとつ解体して調べてみると、けっこう「的外れ」な常識があるので、世間には想像以上に「的外れ」な人が多いんだろう。
「異常な人」と「的外れな人」が言い争っても・・・たぶん、決着はつかない。
・・・と、いったい何が言いたいんだろう・・・わたし。
そのむかし・・・
おおらかで楽しい人達は、その言い争いを笑い飛ばして・・・みんなで「ワ」になってお酒でも呑んで、たちまち仲良しになってしまったんだろうけれど・・・臆病で悲しい人達はそうはいかなかった。
相手を突き飛ばして・・・二度と立ち上がれないように「チカラ」というものをぶつけたかもしれない。
突き飛ばされた方も、臆病で悲しい人達なら・・・きっと「ウラミ」が残って、未来へばら撒いてしまう。「カルマ」はそういうふうにして生まれた・・・。
ちなみに・・・
「八拳剣の判断力」の人たちは物質的欲望の出処を知らない。知らないから抑えられない。抑えられないから他人のものまで欲しくなる。そのために頭を使う。
「九拳剣の判断力」の人たちは物質的欲望の行き先を知らない。知らないから恐れきらう。滅私・・・に対して無感覚になり、神と信じるもののために命を投げ出す。
「十拳剣の判断力」の人たちは物質的欲望の出処も行き先も知っている。知っているから操れる。さらに・・・やがて自分は、見えない世界(表裏のない世界)へ還ることを知っているので自分にウソがつけない。
自分にウソがつけないから良心に生きることができる。肝がすわって、いさぎよい。
世間では、世の中は戦前の雰囲気に戻っている・・・と言われるけれど、わたしの感覚は少し違う。どうも室町時代の、あの幕府の存在感がしだいに薄れてゆく感覚に似ている。
もし、わたしの感覚が当っているなら・・・当てモンみたいで不謹慎だが・・・民生自治・地方自治の時代がやって来ることになる。
そういうこともあって、アメリカの情勢を興味深く見ている。
来年あたり、どこかの州が独自の地域通貨を打ち立てて独立・・・ということになるかもしれない。どこの州も連邦政府の借金の肩代わりはしたくないだろう。
後ろ盾であったアメリカに風穴が開けば、日本もただじゃ済まない。政府の影は、あの室町幕府末期のように限りなく薄くなってゆくかも・・・。
税金利権・・・をナリワイにしてしいる人たちも同じように・・・いや、彼らはひょっとすると、すでに逃げ出す準備が完了しているかも・・・。次の手を考えているはずだ。欲望は止まらないから。
さてさて・・・秘密保全法という、国民を分断してしまう法律なんかサッサと捨ててしまいなさい。
そんな縦のチカラの法律なんて、日本人の国民性にそぐわない。そぐわないどころか、国民性を壊す法律だ。日本をとりもどせない公約違反。
だいいち自らのウソを隠すために国民を利用してる場合じゃない。
横のつながりなくして復興などありえない。縦割り行政や資本優先など前世紀の常識は、そういうことで近々解体してしまう・・・とわたしは思っている。
そして、人々の願いは民生自治へと変化してゆく。それがこの国の人々・・・この国と深い縁をもつ人々の血の中に流れているサガ・・・なのだから。
2013年10月5日土曜日
文明社会
文明とは何だろう・・・と考えてみる。
大自然・・・地球に負担をかけない文明ならば、たとえば、その文明が滅んだ後は跡形もなく・・・自然と同化して、その存在の痕跡は消えてしまうだろう。
自然のリズムの中で、完璧な循環システムを作り出していれば、彼らの使用するものはやがて自然へと還るはずだから。
逆に、歴史で習う「文明」・・・大地を掘り起こし、海を埋め立て・・・大自然を造りかえてゆく文明ならば、その文明が滅んだ後は・・・循環することもなく今に残っていることになる。まるで、傷跡のように。
ちなみに。「原始」という言葉を手元の辞書で調べてみると・・・自然のままで、文化の進歩していないこと・・・とか出てくる。「原始時代」となると・・・文化が未開で、動植物を採取して生活していた時代・・・となる。
「原始」・・・の基準は、だから「文化」ということか。
あ・・・それじゃぁ・・・自然の循環システムを取り入れ、自然のままの生活空間・・・や、必要な野菜だけを自給自足する・・・という暮らしは、ひょっとして「原始生活」ということになるんだろうか。
この辞書には「文化」の後に「意識」が抜けているのじゃないかな。「文化」だけじゃなくて「文化意識」にすれば、わたしみたいなヘソ曲がりにも通じるのに・・・。
話しが別の方向へ行ってしまった。
さて、ヒトの身体は大自然の創造物だ。つまり、地球の物質で出来ている。ということは、自然から分離して考えるわけにはいかない。
だから、自然が何なのか・・・それを感じることが出来なければ元気でいられない。
さらに、人間が造り上げるモノ・・・も、地球の物質から外れることは出来ない。
地球にはホントにお世話になっているわけだ。
地球はアイのかたまりだから・・・人間がいくら地球上に穴を掘ろうが、動物たちの世界を壊そうが・・・何も言わない。ちっとも怒らない。
けれど、地球や地球をとりまく太陽系や銀河や・・・すべての宇宙を包み込んで・・・いや、すべてを存在させてくれている何か・・・は、そうはいかない。
地球のアイだとか、ヒトのオモイだとか・・・そんなもの意に介さない。
別に怒ってるわけじゃないんだろうけれど・・・そんな感情の次元をはるかに超えた世界の・・・たったひとつの法則の内で動いている。
歴史で習う「文明」での科学では、そのたったひとつの法則が・・・よく見えない。
銀河や太陽系や地球や・・・そして人間社会までも巻き込むその法則が、残念ながら人間の造り上げた「文明」ではよく見えない。
上古代の人々は、その法則を的確につかみ、流れを読んだうえで・・・読んだからこそ、あえて闇に隠れた。
長い歴史の中では、多くの支配者が現われ、その支配者に付き従うものが現われ、流されるままの者が現われ、支配者を糾弾する者が現われ、未来を創る者が現われ・・・ウズのように入れ替わり、巻き込まれ・・・巻き込まれながらもその時代の幸せを求めて・・・。
今もその歴史の流れの中にいる。歴史は繰り返し、繰り返し・・・また繰り返そうとしている。
確かに、わたしたちは歴史の繰り返しの中にいるけれど・・・少し違うステージに立っていることに気がつかなければいけないと・・・わたしは思っている。
それは・・・繰り返してはならない「トキ」の中にいること。
これこそ文明社会・・・と教えられてきた社会は・・・はたして、これからも文明社会と呼んでもいい社会なのか。それは未来に残したいシステムなのか・・・。
わたしが神様ならば・・・あ、神様の世界には時間という概念がないようので、未来とか過去とかよくわからないけれど・・・あえて言わせてもらうと、こんなシステムの文明社会なんて・・・たぶん、断捨離するよ。
この国の上古代の人々は、横のつながりの大切さを知っていたはず。
今の現状を見れば、税金の抱え込み・・・税金が決まった場所にしか流れなくなって、つまり毛細血管にお金が流れるとは思えないので・・・あちこちで壊死する地方自治体ができるような気がする。
政府からの資金が地方に流れなくなれば、横につながる必然性が出てくるわけで・・・これはまさに応仁の乱以降の国体の変化に似ていると思う。
武器を持った戦いではなく、生きるために互いの良さを認め生かし合う・・・平成のラン・・・のような。
希望的・・・すぎるかも。
けれど、これこそ上古代の人々が闇に隠した智恵・・・その智恵がトキ満ちて現われた・・・といえなくもない。大きなチャンスが巡ってきた・・・ということだ。
先ほどの辞書で「文明」の意味を引いてみる。
「人知が開け、その精神的文化に対して、物質的生活を発達させた状態」
・・・ということになっているが、ヘソ曲がりなわたしは、この「精神」と「物質」という言葉を入れ替えてしまおうと思う。
文明とは・・・
「人知が開け、物質的文化に対して、精神的生活を発達させた状態」
・・・なかなかいいかも。
大自然・・・地球に負担をかけない文明ならば、たとえば、その文明が滅んだ後は跡形もなく・・・自然と同化して、その存在の痕跡は消えてしまうだろう。
自然のリズムの中で、完璧な循環システムを作り出していれば、彼らの使用するものはやがて自然へと還るはずだから。
逆に、歴史で習う「文明」・・・大地を掘り起こし、海を埋め立て・・・大自然を造りかえてゆく文明ならば、その文明が滅んだ後は・・・循環することもなく今に残っていることになる。まるで、傷跡のように。
ちなみに。「原始」という言葉を手元の辞書で調べてみると・・・自然のままで、文化の進歩していないこと・・・とか出てくる。「原始時代」となると・・・文化が未開で、動植物を採取して生活していた時代・・・となる。
「原始」・・・の基準は、だから「文化」ということか。
あ・・・それじゃぁ・・・自然の循環システムを取り入れ、自然のままの生活空間・・・や、必要な野菜だけを自給自足する・・・という暮らしは、ひょっとして「原始生活」ということになるんだろうか。
この辞書には「文化」の後に「意識」が抜けているのじゃないかな。「文化」だけじゃなくて「文化意識」にすれば、わたしみたいなヘソ曲がりにも通じるのに・・・。
話しが別の方向へ行ってしまった。
さて、ヒトの身体は大自然の創造物だ。つまり、地球の物質で出来ている。ということは、自然から分離して考えるわけにはいかない。
だから、自然が何なのか・・・それを感じることが出来なければ元気でいられない。
さらに、人間が造り上げるモノ・・・も、地球の物質から外れることは出来ない。
地球にはホントにお世話になっているわけだ。
地球はアイのかたまりだから・・・人間がいくら地球上に穴を掘ろうが、動物たちの世界を壊そうが・・・何も言わない。ちっとも怒らない。
けれど、地球や地球をとりまく太陽系や銀河や・・・すべての宇宙を包み込んで・・・いや、すべてを存在させてくれている何か・・・は、そうはいかない。
地球のアイだとか、ヒトのオモイだとか・・・そんなもの意に介さない。
別に怒ってるわけじゃないんだろうけれど・・・そんな感情の次元をはるかに超えた世界の・・・たったひとつの法則の内で動いている。
歴史で習う「文明」での科学では、そのたったひとつの法則が・・・よく見えない。
銀河や太陽系や地球や・・・そして人間社会までも巻き込むその法則が、残念ながら人間の造り上げた「文明」ではよく見えない。
上古代の人々は、その法則を的確につかみ、流れを読んだうえで・・・読んだからこそ、あえて闇に隠れた。
長い歴史の中では、多くの支配者が現われ、その支配者に付き従うものが現われ、流されるままの者が現われ、支配者を糾弾する者が現われ、未来を創る者が現われ・・・ウズのように入れ替わり、巻き込まれ・・・巻き込まれながらもその時代の幸せを求めて・・・。
今もその歴史の流れの中にいる。歴史は繰り返し、繰り返し・・・また繰り返そうとしている。
確かに、わたしたちは歴史の繰り返しの中にいるけれど・・・少し違うステージに立っていることに気がつかなければいけないと・・・わたしは思っている。
それは・・・繰り返してはならない「トキ」の中にいること。
これこそ文明社会・・・と教えられてきた社会は・・・はたして、これからも文明社会と呼んでもいい社会なのか。それは未来に残したいシステムなのか・・・。
わたしが神様ならば・・・あ、神様の世界には時間という概念がないようので、未来とか過去とかよくわからないけれど・・・あえて言わせてもらうと、こんなシステムの文明社会なんて・・・たぶん、断捨離するよ。
この国の上古代の人々は、横のつながりの大切さを知っていたはず。
今の現状を見れば、税金の抱え込み・・・税金が決まった場所にしか流れなくなって、つまり毛細血管にお金が流れるとは思えないので・・・あちこちで壊死する地方自治体ができるような気がする。
政府からの資金が地方に流れなくなれば、横につながる必然性が出てくるわけで・・・これはまさに応仁の乱以降の国体の変化に似ていると思う。
武器を持った戦いではなく、生きるために互いの良さを認め生かし合う・・・平成のラン・・・のような。
希望的・・・すぎるかも。
けれど、これこそ上古代の人々が闇に隠した智恵・・・その智恵がトキ満ちて現われた・・・といえなくもない。大きなチャンスが巡ってきた・・・ということだ。
先ほどの辞書で「文明」の意味を引いてみる。
「人知が開け、その精神的文化に対して、物質的生活を発達させた状態」
・・・ということになっているが、ヘソ曲がりなわたしは、この「精神」と「物質」という言葉を入れ替えてしまおうと思う。
文明とは・・・
「人知が開け、物質的文化に対して、精神的生活を発達させた状態」
・・・なかなかいいかも。
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