2013年5月11日土曜日

常識愚民

サブタイトルの「非常識な常識人」というのは、つまり・・・「無害なバカ」ということだ。

たとえば「受験勉強」の意味は知っているけれど、その価値が理解できない・・・というような。

わたしは子供の頃から、そして今でも「点数を取るための勉強」の必要性が理解できないでいる。

知りたいことは山ほどあったので、いろんな本を読んだ。たぶん・・・けっこういろんな事を知っている子供だったろう・・・と、自分では思っている。

けれど、得た知識は点数とは関係なく、さらにそれで「点」が欲しいとは思わなかった。だから学校の成績などどうでもよかった。どうでもいいから、どうでもいい成績だったが・・・。

今でも、ちっとも理解できないので・・・やっぱり、ずっと「非常識な常識人」のままでいる。

理解できる常識人よりも、理解できない非常識人のままでいいとも思っている・・・が、なんとなく今の世相を見ながら・・・「非常識な常識人」なりに思うことがある。

やがて・・・

やがて・・・「点」をつけられることに慣れ・・・馴染んだ人間も、「点」をつける側になる。
「点」をつけるとは、人を評価するということ。
ならば、「点」がつけられない「個性」というものに、彼らはどういう採点ができる・・・だろう。

さらに・・・さまざまな問題点というのは「解決」の前に「発見」という大事な仕事がある。

「点」をとることに慣れた人間は、たしかに提示された問題に対する「解決」能力はあるかもしれない。だが、それは誰かが問題を提示してのこと。

日々の流れの中・・・日常の「常識」の中では・・・たぶん「発見」できない。「発見」できなければ、問題点は「解決」できない。

そして・・・なんとなくおかしい・・・という感覚のまま、幾枚も幾枚も「常識」が被せられて行く。


日本人には「常識」というネバネバしたものがこびりついているという。以前書いた「一般的」というものとよく似ている。

たとえば、「法律を守るのは常識」・・・という常識が、国民をとんでもない方向へ引きずり込んでしまう場合がある。

司法に属する組織は国民を守るための組織ではなく「法律」を守るための組織だ。いつも権力側から見ている。

だから、いざという時には国民にキバをむく。そんな事例などいくらでもある。

「常識」に捉われていると、その空気の変化が読めない。


野蛮人だからこそ法律が必要・・・ということを、ホントはみんな潜在的にわかっている。それで、法律を幾重にも重ねられると、心の中で・・・「自分たちは野蛮人」・・・という「無意識」が動き出す。

「法律を守っていると平和に暮らせる」・・・という「常識」が芽を出す。

どこかのコマーシャルも同じ。人としての当たり前のモラルを、わざわざTVで流す。「自分たちは、こんなこともできていないのか・・・情けない」・・・と、潜在意識に刷り込む。

これを愚民政策という。


「女性手帳」・・・なるものが出来るそうな。女性の出産行為を・・・変な言い方だが・・・管理しようというらしい。出産年齢の制限を設けよう・・・とウタってあるらしい。

ついつい・・・戦時中の「国防婦人会」を連想してしまった。政府の代表が、メイサイ服姿で戦車の上から手を振る・・・ような国だ、さもありなん・・・と。

さらに、大手メディアの沈黙に背中が寒くなってくる・・・が、この寒さが愚民にはわからない。わからないからカゼを引く。

カゼを引いて熱が出れば「常識」という解熱剤を呑む。愚民は、発熱が免疫反応ということを知らない。発熱によってカゼ菌の繁殖を抑えるカラダの智恵に気づかない。

やがて「常識」というクスリなしには生きてゆけないカラダになってしまい・・・愚民政策は大成功をおさめる。


「常識」・・・はマジメな人間を抱きこんで・・・大きな渦になって・・・やがて、暗闇の彼方で拡散し、ケシ粒となって消えてゆく。

自らの「良心」の声。「常識」よりも、ずっとずっと大事な「良心」の声。マジメな人ほど聞いてほしいと思う。

身についた「常識」を一度解体して、ホントの「天意(あい)」に気づいてほしいと思う。



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