2013年5月25日土曜日

見えない世界 見える世界

「食」のことを「ケ」という。「ケ」は「化」と同じで・・・昔の人は食べ物は人間に化けると感じていたのかもしれない。

たしかに食べたモノが人間を造る。食べたモノが人間になる。逆にいうと、人間は食べたものになる・・・ということでもある。

「食」を「ショク」と読むと「職」を連想してしまう。

これは・・・食べ物を得るために職業が必要・・・というよりも、「職」というものがその人間を「食」してしまう・・・かな?

いつの間にか、人間性まで「食」されてしまう人が増えたみたいだ。

こういうふうに日本語は同じ読みの場合、その言葉のもつ意味合いが重なるものが多い。ほとんどすべてと言ってもいい。

これは言霊のエネルギー・・・大自然のエネルギーに合わせたからで、これが右脳を刺激する。つまり、虫の音(ね)がどう聞こえるのか・・・ということにつながるわけだ。

もうひとつ言うと「見えない世界」と「見える世界」のつながり・・・の捉え方にも現われる。

日本には祈りの場所が多い。小さな祠や石の地蔵さんや・・・みんな含めるとたぶん世界一だと思う。数えたことはないけれど・・・。

見えない世界をいつも身近に感じていたわけで・・・これは日本語を構成する言霊のエネルギーが自然にそうさせていた・・・といえなくもない。

見えない世界のことは量子物理学などでしだいに明らかにされてきてはいるが、物質文明の側から見ているだけでは永遠に理解できない。

そらそうだ、なにしろ見えない世界なのだから。

それでも、見えない世界の側から、こちら側・・・見える世界を見れば、いろんなことがわかってしまう。何故なら「見えない世界」が先で「見える世界」が後に出来たからだ。

言い方を変えると、「見えない世界」が「見える世界」を創った・・・わけだ。

このことはとても大事なことだと思う。このことがわかれば「宇宙のたったひとつの法則」も理解できるはず。「古事記」神代記の冒頭の部分の秘密も見えてくる。

だから向こうからこっちを見れば・・・見るチカラがあればの話だが・・・なんでもよくわかるはず。

たとえば、人間の身体は見えないものが集まって見える身体を造っている。そしてその見えないものたちはみんな揺れている。振動しているわけだ。

この辺までは素粒子のことを考えればわかる。

その振動は、人間の思念・・・意志の波動とも共鳴する。脳波は「粒」・・・揺れる波なので、人間の身体の各部位の持っている特有の振動と共鳴する。響きあう。

身体の中では「ガイアシンフォニー」が響き渡っている・・・と考えてもおかしくはない。

もしこのオーケストラのどこかのパートがおかしな音を出したら?それが脳・・・思念や意識から発せられる音だったら・・・。

量子力学は見えない世界に近づいてはいるが、医学はちっとも進まない。

対症療法は・・・アロパシーは原因を探す医学ではない・・・とハッキリ書いてもいいと思う。症状を抑え込む、あるいは削除する医学だ。平気で人間の身体にメスを入れる。

自分で見なければわからない・・・見える世界だけの智恵。だから病気はなくならない。増える一方だ。つまり、ちっとも進まない。

「見えない世界」と「見える世界」のつながりがわかり始めると、間違いなく今の医学は行き詰る・・・というか、方向転換を迫られる。

あ・・・そういえば、方向転換を迫られているのは・・・医学だけではなかったっけ。数え上げればキリがない。

モノと人間の関係は、人間と神との関係によく似ている・・・と以前書いたが、物質至上の文明は・・・あるいは資本至上の文明は、人間を「モノ」の次元に貶めた・・・と言ってもいい。

人間の未来は「モノ」に近くなるのか、それとも「神」に近くなるのか・・・どちらを選ぶのか、なんていちいち考えなくてもわかっている。でも、考えていなければ気づかない。「モノ」は自分が「モノ」だと気づかないのだから。

「見えない世界」と「見える世界」の間にいつしか生まれたヒズミ。どこかのパートが違う音を出してしまった不協和音。たぶんそれは、人間の歴史の中に・・・ネガティブな波動として残っているのだろう。

これ以上、大きくしてはいけない。


 

2013年5月18日土曜日

意識の自由


どう意識するかはとても大事だ。意識が変われば未来が変わる。

・・・意識。

時間が前へ進むように人も前へ進む。いかなる場合でも前へ進む。前とは顔の向いている方向のことだ。顔がどこを向いているのか・・・目の前の出来事をどう意識するのか。その意識が未来を創る。

常識が意識を作り出すのではなく、意識が常識を作り出す。常識とはだから個人的な錯覚にすぎない。

意識が変わるキッカケのひとつに「知る」という行為がある。知ることは明らかにすること。ホントのことを知れば内なる常識が変わる。

だから情報が制限されると、当然視野が狭くなり造られた常識に操られることになる。
同時に今のままでいいと感じ、変化を・・・進化を嫌うことになりかねない。

情報を制限して常識を植えつけてしまえば人を思うように誘導できる・・・ということでもある。

世論誘導とはそういう性質を利用したもので、これには今の時代、マスメディアの責任は想像以上に重い。

人の意識が未来を創るのなら、どういう情報を提供するのか・・・は、人類の未来をも左右することにつながる。だからこそ責任と自覚は不可欠。

そういう視点で世間のマスメディアを見渡してみると・・・言葉も出ないほど荒涼としているので、それでわたしは・・・かれこれ十年ほど前から、感覚に従ってさまざまな情報を自分で辿ってきた。

まさに混沌の時代だと実感しきりである。混沌の時代とは本性の時代でもある。上っ面では生きてゆけないということだ。隠してもボロボロとこぼれ落ちる。

つい先日、政治家の器じゃないことが露呈した人がいたが、その発言に対しての各界の人々の反応の中にもボロボロとこぼれ落ちる本性が見えた。

彼はそういう役目を担っているのだろう。

政(マツリゴト)とは「マ」のつり合わせのことだ。間をつり合わせるには「徳」がなければならない。「徳」とは言霊「エ」の次元。国常立神(クニノトコタチノカミ)・・・でもある。

税金をナリワイとしているようでは、いずれにしても一度バラして建替えなければならない・・・と思う。たぶんそういうことになると思う。

いったん荒野になって・・・再生準備。さなぎから蝶へ。羽化の準備は整っている・・・かな?

わたしは、実は荒野が好きだ。目の前の荒野が、どんな未来に変化するのか・・・考えるだけでワクワクしてしまう。こんな時、少し変わっている自分で良かったと感じる。

意識を自由にすれば、元来の生成発展の本性が現われる。それは宇宙全体がそういう性質に包まれているから。宇宙とつながるということ。

目の前に伸びるのは見慣れた道ではなく、自由に選べる荒野・・・がいい。足を踏み入れたことのない荒野だからこそ、理想の未来を創造することが出来る。

2013年5月11日土曜日

常識愚民

サブタイトルの「非常識な常識人」というのは、つまり・・・「無害なバカ」ということだ。

たとえば「受験勉強」の意味は知っているけれど、その価値が理解できない・・・というような。

わたしは子供の頃から、そして今でも「点数を取るための勉強」の必要性が理解できないでいる。

知りたいことは山ほどあったので、いろんな本を読んだ。たぶん・・・けっこういろんな事を知っている子供だったろう・・・と、自分では思っている。

けれど、得た知識は点数とは関係なく、さらにそれで「点」が欲しいとは思わなかった。だから学校の成績などどうでもよかった。どうでもいいから、どうでもいい成績だったが・・・。

今でも、ちっとも理解できないので・・・やっぱり、ずっと「非常識な常識人」のままでいる。

理解できる常識人よりも、理解できない非常識人のままでいいとも思っている・・・が、なんとなく今の世相を見ながら・・・「非常識な常識人」なりに思うことがある。

やがて・・・

やがて・・・「点」をつけられることに慣れ・・・馴染んだ人間も、「点」をつける側になる。
「点」をつけるとは、人を評価するということ。
ならば、「点」がつけられない「個性」というものに、彼らはどういう採点ができる・・・だろう。

さらに・・・さまざまな問題点というのは「解決」の前に「発見」という大事な仕事がある。

「点」をとることに慣れた人間は、たしかに提示された問題に対する「解決」能力はあるかもしれない。だが、それは誰かが問題を提示してのこと。

日々の流れの中・・・日常の「常識」の中では・・・たぶん「発見」できない。「発見」できなければ、問題点は「解決」できない。

そして・・・なんとなくおかしい・・・という感覚のまま、幾枚も幾枚も「常識」が被せられて行く。


日本人には「常識」というネバネバしたものがこびりついているという。以前書いた「一般的」というものとよく似ている。

たとえば、「法律を守るのは常識」・・・という常識が、国民をとんでもない方向へ引きずり込んでしまう場合がある。

司法に属する組織は国民を守るための組織ではなく「法律」を守るための組織だ。いつも権力側から見ている。

だから、いざという時には国民にキバをむく。そんな事例などいくらでもある。

「常識」に捉われていると、その空気の変化が読めない。


野蛮人だからこそ法律が必要・・・ということを、ホントはみんな潜在的にわかっている。それで、法律を幾重にも重ねられると、心の中で・・・「自分たちは野蛮人」・・・という「無意識」が動き出す。

「法律を守っていると平和に暮らせる」・・・という「常識」が芽を出す。

どこかのコマーシャルも同じ。人としての当たり前のモラルを、わざわざTVで流す。「自分たちは、こんなこともできていないのか・・・情けない」・・・と、潜在意識に刷り込む。

これを愚民政策という。


「女性手帳」・・・なるものが出来るそうな。女性の出産行為を・・・変な言い方だが・・・管理しようというらしい。出産年齢の制限を設けよう・・・とウタってあるらしい。

ついつい・・・戦時中の「国防婦人会」を連想してしまった。政府の代表が、メイサイ服姿で戦車の上から手を振る・・・ような国だ、さもありなん・・・と。

さらに、大手メディアの沈黙に背中が寒くなってくる・・・が、この寒さが愚民にはわからない。わからないからカゼを引く。

カゼを引いて熱が出れば「常識」という解熱剤を呑む。愚民は、発熱が免疫反応ということを知らない。発熱によってカゼ菌の繁殖を抑えるカラダの智恵に気づかない。

やがて「常識」というクスリなしには生きてゆけないカラダになってしまい・・・愚民政策は大成功をおさめる。


「常識」・・・はマジメな人間を抱きこんで・・・大きな渦になって・・・やがて、暗闇の彼方で拡散し、ケシ粒となって消えてゆく。

自らの「良心」の声。「常識」よりも、ずっとずっと大事な「良心」の声。マジメな人ほど聞いてほしいと思う。

身についた「常識」を一度解体して、ホントの「天意(あい)」に気づいてほしいと思う。



2013年5月4日土曜日

神の御稜威


旧約聖書の「出エジプト記」の冒頭部分に、イスラエルの民の数が増え続けるので、エジプト人が恐怖を感じた・・・とある。

ところがいくら抑え込んでも増え続けるので、イスラエルの民を奴隷にし圧制・圧迫をかけた・・・と記されている。

この話、なんとなく・・・なんと言うか・・・いや、うまく言えないから、やめておこう。


イザナギ神が黄泉の国で見た妻イザナミ神の身体にはウジがたかっていた。ウジとは「ウ」の字で、「ウ」次元の・・・つまり物質欲に取り付かれた姿ということだろう。

そのあまりの変わりように恐れを感じて、逃げ帰るイザナギ神は追ってきた黄泉軍(よもついくさ)たちに向けて・・・「その坂本にある桃子(もものみ)三つを取りて、待ち撃てば・・・」・・・桃を三個投げつける。

イザナギ神は、この桃に「意富加牟豆美命(おほかむずみのみこと)」と名づけ・・・「人々が苦しい状況に陥ったときには助けなさい」・・と言う。

意富加牟豆美・・・とは、大いなる神の御稜威(みいづ)。

ちなみに、「三つ」とは言霊の「ヱ・ヲ・ウ」ということらしい。桃とは「百」。言霊五十音と、鏡合わせの操作方法の五十・・・合わせて百のこと。

黄泉軍(ヨモツイクサ)たちは、言霊の奥の深さ・・・その完成度に、物質次元での研究・探求だけでは到底及ばないことに気づき、恐れ入って逃げ帰ってゆく。

話は変わるが・・・。

大型小売店・・・ショッピングモールや大規模な都市計画というのは、その土地の買収や建築だけのお金が動くわけではない。

周辺の不動産や関連企業の株の値段にも大きく影響する。

つまりその計画の流れをつかんでおけば数億のお金を手にすることだって簡単なわけだ。

ところで、ビルの管理にはそれなりのお金が掛かる。維持するにも、改装・拡張するにも、はたまた解体するにもそれなりのお金が掛かる。だからお金を稼ぎ続けなければならない。

領土問題や憲法改正・・・などで、どこかに隠れてしまった・・・隠されてしまった「消費税」や「TPP」のことを考えると、前世紀のままの都市計画など早急に行き詰るような気がするのだが・・・。

3年、もつかな・・・。

不動産や株の値段が上がって・・・そのまま売り逃げすれば、いい思いが出来そうだ。

もちろん、いい思いをするのはわたしではない。ほんのひとにぎりの誰かなんだろうけれど・・・その誰かを糾弾しようなどと思っているわけではない。

ただ、わたしにはそれらがみんな「二十世紀の残像」に見えてしかたがない。残像を追いかけて、とうとう自分まで残像になってしまった・・・ような。

残像は永遠に止まった時間なので、そこに進化はない。

去年の暮れに間違いなくシフトした地球の流れは、それらをみんな置き去りにしていくだろうと思っている。それがどういう状態なのか、残念ながらわたしには見えないないが・・・。

イザナギが投げた言霊「ヱ」は、利他共生の増殖をあらわす。愛・調和・慈悲・徳・寛容・謙虚・・・。

そして・・・叡智の「え」。笑顔の「え」。それに気づいた人は、きっと幸せになれる。