仕組みとしては、人間は本来「物」の気持ちがわかるように出来ている。何故かというと、「物」にとっての神は人間だからだ。
自分が神に望むものは何なのか・・・どんな神なら信じ、敬い、従えるのか・・・を考えればいい。この神のためならがんばれる・・・とか。
人間が神にお願いすることを、「物」も思っている。
だから、「物」を慈しみ、大切にすることは、「物」が人間の思いに応えてくれることにつながる。身の回りの「物」について照らし合わせてみればよくわかると思う。
大切な「物」、そうでない「物」、忘れ去られた「物」、邪魔な「物」。みんなその通りになっていると思う。
「物」は、大切にされることを・・・愛されること願っているんだろう。愛されるからこそ、神に利用されることに喜びを感じるのだろう。
そういうふうに見てゆくと、消費経済社会は「物」にとっては恐怖社会・・・かもしれない。人間社会との相似象になっている。
人間が「物」を捨てるように神も人間を捨てるときがあるが、ただ、ゴミとして捨てることはない。いらない人間は、一人もいないからだ。
その死にすら意味があることを神は知っている。そこが神と人間の次元の違うところだ。
ゴミを出し続ける限り人間は神の領域には入れないだろう・・・だから、たぶん・・・高次元の宇宙人の仲間には入れないってことだ。
・・・ざんねん。
人間は「物」をゴミにしてしまうが、とうとう手に負えないゴミまで作り上げてしまった。
手に負えないゴミをさらに作りつづけていくことは・・・順番から言うと、人間自身が神にとっての「手に負えないゴミ」・・・ということになる日がくる・・・いや、もう来ているかもしれない。
神とは「ハタラキ」のことだ。
大宇宙の「ハタラキ」に異変が生じようものなら、神の存在・・・その維持に大きく支障をきたす。宇宙の存在をも危うくしかねない。
そんなことをする人間を、大宇宙の「ハタラキ」・・・神が放っておくはずがない。人間が「物」をゴミ処理するように、神も人間を処理するだろう。
地球がかつて地上には不必要になった資源(地下資源)を地下に埋め込んだように、不必要になった人間を、みんな地下に埋め込んでしまうかもしれない。
ちょうど、人間が放射性物質を地下に埋没させようとするのと同じだ。
・・・おそろしい。
古来、日本の職人は「道具(物)」を我が身と同じように大切にしてきた。西洋での道具と人間との関わり方と少し違う。道具をまるで生き物ののように扱ってきた。
同時に、作業場や家の中にはいたるところに神が宿る場所がある。
「道具(物)」「人間」「神」・・・その関係を大切にし合いながら、この国は歩んできたような気がする。それはまさしく高い精神性を、伝統として維持してきたということだ。
「神かかり」という言葉があるが、「物」を大切にすることによって、「物」が喜び。喜んだ「物」が人間に尽くし・・・「物」の純粋な思いに人間という神がかかり・・・「物」と人間の響き合いが、さらに高次元の・・・人間にとっての神を呼び・・・神が人間にかかる。
出来上がった作品の素晴らしさに、人間は神を感じ感謝する・・・そして、神かかりの連鎖が果てしない上昇を生み出してゆく・・・。
「物」を大切にするという・・・小さな小さな行為は、つまり壮大な絵巻物のように・・・永遠に、神かかりの響き合いの中で、未来が広がってゆく・・・ことにつながっているのではないか。
「物」を大切にすることは未来を大切にすることといえる。
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