2013年2月23日土曜日

ひとつの命の中で

光と闇のことを考えている。たしかに、光は闇ではないし、闇も光ではないので別々な存在だと考えてもかまわないのかもしれない。

光と闇を結ぶ一本のチューブの中を歩いていると・・・。

光に向かえば一歩ごとに明るくなってゆくが、背中は暗い闇。逆に闇に向かえば、一歩ごとに闇が深くなってゆくが背中は光となる。

つまりこれが分離なのか・・・も。

光と闇は、神と悪魔・・・と、世間では比喩されるが・・・それでは、光と闇は互いに背を向け合っているのか、それとも合い対して睨み合っているのか・・・。

このままでは永遠に・・・光と闇は、和解できそうにない。

光と闇の分離は、「ア」と「ワ」が二つに分かれた部分に相当する。陰と陽に分離した・・・ということだ。

つまり「自我」が生まれて、その「自我」を見ているもうひとりの自分・・・と言ってもいい。「ア」は「吾」。「ワ」は「我」。あなたとわたし。主体と客体。

「ア」と「ワ」は「ウ」から生まれる。「ウ」とは・・・「うずく」「うごめく」「うまれる」などなど、得体の知れない思い。その思いが「うず」のように心に広がって、やがて「あっ!! そういうことか」・・・と気がつく。

気がつく・・・ということは「自我」が生まれた、ということ。だから「ア」と「ワ」。

古事記でいうと・・・「ウ」はアメノミナカヌシノカミ。「ア」はタカミムスビノカミ。「ワ」はカミムスビノカミ・・・ということになる。

それでは、「ア」と「ワ」を生んだ「ウ」は、どこにいたのか。どこで「うずき」「うごめき」「うまれ」たのか・・・というと、そこは「ス」の世界。

「ス」・・・「素」。「ス」の世界には何もない。「空(くう)」の世界。

何もない・・・ことは、なんでもある・・・ということだ。やがてすべてを、そこから生み出すのだから、つまりそこには何でもある・・・わけだ。そういう世界を「空(くう)」という。

さて・・・永遠に和解できそうにない光と闇は「ア」と「ワ」。光と闇は元々ひとつの存在だった。

神と悪魔は元々ひとつだった・・・が、その「ひとつ」が語られない。語られない以上、やっぱり光と闇は永遠に和解できない・・・ということだ。

言霊の世界は、その「ひとつ」を表すことができる。おまけにその「ひとつ」が生まれた「空(くう)」の存在も語ることができる。

宇宙という、ひとつの命の中でいつまでも和解できないことは、ちょっと悲しい。

「空(くう)」の世界に満ちているエネルギーを循環させれば、つまらない利権や私欲など消し飛んでしまう・・・というのに。

それとも・・・宇宙は、より高い精神性、人間性を求めていて・・・精神性・人間性とは、意識の波動のことだ。

人間が不要なものを排便するように、宇宙も意識波動の低い不要な生命体を・・・排便してしまう・・・準備をしているのかもしれない。

できれば・・・宇宙の細胞のひとつでありた。ウンコには・・・あ!!

「ウ」・・・なるほど、それで「ウンコ」か・・・いやいや、ウンコの言霊解説はやめておこう。

2013年2月16日土曜日

自覚と自立が必要なワケ

・・・ここに千引きの石(いわ)をその黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き塞(さ)へて、その石(いわ)を中に置きて、各(おのおの)対(むか)ひ立ちて、事戸(ことど)を渡す時・・・

イザナミ神は「一日に千人、絞(くび)り殺さむ」と言い。それに対してイザナギ神は「一日に千五百の産屋を立てむ」と言うが・・・これは人間を「絞(くび)り殺さむ」と言っているのではなくて、「真のコトバ」を奪う・・・と言っているのだ。

「一日に千の真のコトバを偽のコトバにしてやる」「それならば一日に千五百の真のコトバを生み出そう」・・・と言い合っているわけだ。

日本語は上古代の人々が、その事象の持つエネルギーをそのままにコトバにした言語だ。だから、言葉のひとつひとつに、その事象の真を感じ取ることが出来る。

物にも、自然にも、こころにも・・。だから、真のコトバは誤魔化せない。

コトバは言霊というエネルギーを放つ。真であろうと偽であろうと、エネルギーを放つことに違いはない。ただ、そのハタラキが違うだけだ。

ハタラキが変われば神の名が変わるように、引き寄せるモノも変わる。

たとえば・・・シオニストが行なっているといわれる「3S政策」などは、真と偽を見分ける力を削ぐ政策なのだろう。

何かおかしいなぁ・・・というストレスが溜まっても、スポーツや映画やセックスで発散させ、どこかに消えてしまう。いったん消えてしまっても、翌日になればまたストレスを溜めに出かけて行く。

肉体や心を病むほどのストレスを生み出す社会システム自体が間違っている・・・ことに気がつかなくて・・・見分けがつかなくて・・・いつのまにか其処から逃れることも出来なくなってしまう。

それが当然のこと・・・になって、世の中にはストレス解消のビジネスが広がる。

それが、いいことなのか、よくないことなのか・・・どっちにしても進化するためにはストレスが必要なので・・・と思ってみたりもするが・・・。

ストレスをちょっとづつ落としていって・・・その落としたストレスがどこかへ流れていって・・・流れたストレスがとんでもなく積もり積もって・・・とうとう地球がこんなことになってしまった・・・のかも。

いやいや、そういう話しではなく、真と偽を見分けるには・・・というのを考えてたわけで・・・話しが反れてしまった。

民主主義は多数決によって・・・決めるというが、この多数決というは数の力のこと。民主主義というのに・・・どこかおかしい。力を持たなければ役に立たない。

だから、民主主義は平等じゃない・・・という「平等」というコトバも、どこか変だ。何か足りない。

人はそれぞれに、食べる量が違うし好みも違う。鼻は耳の仕事が苦手なように・・・おしりはおなかの仕事が出来ない。

それで、それぞれの言い分を主張し始めると争いが起こる・・・それじゃ平和的解決にはならない、という平和・・・というコトバも変だ。片寄っている。

平和というコトバの中には「力の下に集まれ」・・・という空気を感じてしまう。わたしが変なのか?

人間は・・・平等とか平和を目指しているのか?ほんとに・・・などと思ってしまう。

人間は、平和とか平等とか・・・そんなあたりまえのことを目指してるのじゃなくて、ほんとのほんとは「調和」を目指しているのだろう。

「調和」して、みんなでいっしょに上昇したいのだろう。

いろいろな国・・・人々が調和するために力はいらない。他を認め、自分を認める広さが必要だ。他のために生きる勇気もいる。

何よりも「真」がなくてはならない。日本古来の言霊はそのことを、この時代に生きるわたしたちに伝えてくれる。

ところが、絞(くび)り殺された人には、真のコトバが発せられない。

何故、絞(くび)り殺されるのか・・・というと、たぶん何かに依存しているからだろう。自分の外の「カミ」にすがりつくために、重い荷物をいっぱい身につけているのだと思う。

「カミ」は外にいるのじゃなく内にいる・・・というのに。

さらに、余計なモノをいっぱい身につけているくせに、その中に自分の答えが見当たらない。見当たらないはずだ・・・絞(くび)り殺された時から、ココに自分はいないのだから。

自分も、自分の「カミ」も見失うということは、主体(あおうえい)と客体(わをうゑゐ)の両方を見失うことでもある。出発点も帰着点も見失うことだ。

そうなると、創造意志の「イ」段の言霊たちが右往左往してしまう。だから答えに辿り着けない。

それでも、人が人として自覚し、自立へ動き出すと・・・不思議に真のコトバが見え出してくる。ということは、偽のコトバも見分けることが出来る・・・ということだ。

それをたぶん・・・サニワというのだろう。

人が人として自覚する・・・というのは、主体(あおうえい)と客体(わをうゑゐ)が定まってくる・・・ということだと思う。五十音図での左右の枠・・・この神を和久産巣日(わくむすひ)神という。

この神の子が豊宇気毘売(とようけひめ)神・・・伊勢外宮の祭神・・・であり創造八神(ち・い・き・み・し・り・ひ・に)ということだ。具象化してゆくエネルギー。

未来を創ってゆくには・・・いまこそ自覚と自立が必要なのだ。



2013年2月9日土曜日

「物」を大切にするということ

仕組みとしては、人間は本来「物」の気持ちがわかるように出来ている。何故かというと、「物」にとっての神は人間だからだ。

自分が神に望むものは何なのか・・・どんな神なら信じ、敬い、従えるのか・・・を考えればいい。この神のためならがんばれる・・・とか。

人間が神にお願いすることを、「物」も思っている。

だから、「物」を慈しみ、大切にすることは、「物」が人間の思いに応えてくれることにつながる。身の回りの「物」について照らし合わせてみればよくわかると思う。

大切な「物」、そうでない「物」、忘れ去られた「物」、邪魔な「物」。みんなその通りになっていると思う。

「物」は、大切にされることを・・・愛されること願っているんだろう。愛されるからこそ、神に利用されることに喜びを感じるのだろう。

そういうふうに見てゆくと、消費経済社会は「物」にとっては恐怖社会・・・かもしれない。人間社会との相似象になっている。


人間が「物」を捨てるように神も人間を捨てるときがあるが、ただ、ゴミとして捨てることはない。いらない人間は、一人もいないからだ。

その死にすら意味があることを神は知っている。そこが神と人間の次元の違うところだ。

ゴミを出し続ける限り人間は神の領域には入れないだろう・・・だから、たぶん・・・高次元の宇宙人の仲間には入れないってことだ。

・・・ざんねん。


人間は「物」をゴミにしてしまうが、とうとう手に負えないゴミまで作り上げてしまった。

手に負えないゴミをさらに作りつづけていくことは・・・順番から言うと、人間自身が神にとっての「手に負えないゴミ」・・・ということになる日がくる・・・いや、もう来ているかもしれない。

神とは「ハタラキ」のことだ。

大宇宙の「ハタラキ」に異変が生じようものなら、神の存在・・・その維持に大きく支障をきたす。宇宙の存在をも危うくしかねない。

そんなことをする人間を、大宇宙の「ハタラキ」・・・神が放っておくはずがない。人間が「物」をゴミ処理するように、神も人間を処理するだろう。

地球がかつて地上には不必要になった資源(地下資源)を地下に埋め込んだように、不必要になった人間を、みんな地下に埋め込んでしまうかもしれない。

ちょうど、人間が放射性物質を地下に埋没させようとするのと同じだ。

・・・おそろしい。


古来、日本の職人は「道具(物)」を我が身と同じように大切にしてきた。西洋での道具と人間との関わり方と少し違う。道具をまるで生き物ののように扱ってきた。

同時に、作業場や家の中にはいたるところに神が宿る場所がある。

「道具(物)」「人間」「神」・・・その関係を大切にし合いながら、この国は歩んできたような気がする。それはまさしく高い精神性を、伝統として維持してきたということだ。

「神かかり」という言葉があるが、「物」を大切にすることによって、「物」が喜び。喜んだ「物」が人間に尽くし・・・「物」の純粋な思いに人間という神がかかり・・・「物」と人間の響き合いが、さらに高次元の・・・人間にとっての神を呼び・・・神が人間にかかる。

出来上がった作品の素晴らしさに、人間は神を感じ感謝する・・・そして、神かかりの連鎖が果てしない上昇を生み出してゆく・・・。

「物」を大切にするという・・・小さな小さな行為は、つまり壮大な絵巻物のように・・・永遠に、神かかりの響き合いの中で、未来が広がってゆく・・・ことにつながっているのではないか。

「物」を大切にすることは未来を大切にすることといえる。



2013年2月3日日曜日

かぐや姫考


かぐや姫は竹の中から生まれた。

竹とは松竹梅の真ん中。中性をあらわす。松は陰。梅は陽。アルカリ性と酸性・・・でもある。
日本に一番多いのは竹・・・だそうだ。もしそうなら、この国はまさしく中庸の国。

ところで、ケガレとは偏りが生み出す。どこかに何かが付着しているのでうまく回転できない・・・つまり、循環できない状態のことだ。だから「気」が枯れる。それをケガレという。

その付着した何かを削ぎ落とすことをミソギ。ミソギをして回転を正常にもどして・・・浄化。

かぐや姫は真ん中の・・・浄化された状態を暗示しているように思う。
そこは十拳剣の判断力によって護られた精神世界・・・かもしれない。あるいは、純粋無垢な赤ちゃんの世界。

かぐや姫に言い寄ってくる五人の男たちは五官感覚の「ウ」・・・物質次元を表しているのかも。

かぐや姫の所望したモノ・・・といえば、仏の御石の鉢・蓬莱の玉の枝・火鼠の裘・龍の首の珠・燕の産んだ子安貝。

これらはおそらく自然界の見えない仕組みを象徴したもので、物質として作り出すことが出来ないのだろう。人間にはそのハタラキを利用することしか出来ない。

最後には帝まで現われ、かぐや姫を屈強な兵士たちに護らせる・・・が姫を迎えにやってきた、次元の違う月の使者たちに対してこの世の武器は何の役にもたたない。

この時、闘おうとしたのは帝の兵士たちの方で、月の使者たちは何もしなかった。帝の兵士たちは自ら自滅するのだが、このことはけっこう大事なことのように思う。

先に書いた、純粋無垢な中庸の世界観・・・これにはいかなる物質文明も歯が立たない。

月に向かう前に、かぐや姫は帝へ宛ててフミをしたためるが・・・はたして帝は、かぐや姫のフミを解読できたのだろうか。