2013年1月19日土曜日

自己表現へ

50兆円で米国債を買うという。50兆円あれば・・・移住希望者や自主避難者への補助・・・どれだけ多くの希望が生まれるだろう。

かたや大阪では、試験中止や職員解任・・・などなど。知事時代の自らの体罰容認発言は何だったのか。まさか・・・あの頃から計画された、命を利用した教育現場への政治介入・・・?

さてさて、この人たちは何処へ向かってるのか・・・。そっちの道は行き止まり。まさに時代のウナリ・・・。


話しは変わるが、自己実現の世から自己表現の世へ変わる・・・と、カタカムナのヒラメキとして知っていた。けれど正直言って、自己実現と自己表現の違いがよくわからなかった。

イメージしたことが現実となる・・・とは、夢を表現することであり実現することだろう。表現するからこそ実現するのだろう・・・と、明確な違いをうまく理解できないでいた。

その疑問が、ある事実を知って氷解した。なおかつ、その変化が劇的な上昇をもたらす・・・かもしれないことを知った。


古事記は人間の精神構造を言霊の原理にもとづいて解き明かしているが、日本書紀は古事記の解き明かした精神構造をさらに一歩進め、日本民族の使命遂行の方法を解き明かしている・・・というのだ。

古事記で解き明かされる先天十七神(具象化する以前の、潜象世界で動く言霊)は・・・「ウ」から始まり、「ア・ワ」と生まれ、「オ・エ」「ヲ・ヱ」と広がり、「チ・イ・キ・ミ・シ・リ・ヒ・ニ」の創造八神と続き、イザ!!と「イ・ヰ」のイザナギ・イザナミの親神が具象化へ向かう。

つまり、母音から解き起こし、父韻へと導かれる。これは自己実現への道のり・・・と言えなくもない。

ところが・・・日本書紀ではその逆。父韻から導かれるというのだ。それは、創造八神「チ・イ・キ・ミ・シ・リ・ヒ・ニ」から動き始め・・・母音へとつづく。

(逆に動くということは・・・揺り戻しと同じことなのか?)

創造八神から動くとは・・・創造意志が最初に解き放たれるということ。意志・・・「イシ」。ひふみ神示の中に「イシもの言うときくるぞ」・・・とあるのは、そういうことだったのだ・・・。


人は宇宙・・・大自然に・・・生かされている。それをいつのまにか自分で生きていると・・・おかしな言い方だが思い込んでしまった。思い込んでしまったがゆえに、人間が中心の仕組みをつくり、その中で得体の知れないモノに捉われてしまった。

すべての正体が見えたとき、それを脱ぎ捨て、手放して・・・根源的な自由に目覚める。

何者にも束縛されていない、という自由に目覚めたとき・・・そのとき創造意志が発動し、それが自己表現となってゆくのだと気づいた。

日本書紀の最初に出てくる神は国常立神である。言霊「エ」。実践智の「エ」だ。

実践の時代・・・つまりそれは、自己実現という具象化の時代(物質偏重、消費経済といってもいい)を超えて、こだわりを手放したココロ・・・のままの自己の表現への変化、ということだ。


先に書いた、枝道に入り込み行き止まりの世界へ向かう大きな流れは、根源的な自由ではなく「チカラ」を手にしたときの自由でしかない。

その世界の奥に入り込んでいればいるほど、抜け出すためには大きな勇気と大きな意志が必要だろう。手放すのにひと苦労もふた苦労もしなければならない。

そんな苦労をするよりは、ソコで今までどおり・・・何事もなかったように生きている方が楽に決まっている・・・が、一度気がついてしまえばその楽が苦になってしまう。

「早く手放しなさい
大自然に生かされているという
広い広いココロを持った人間に・・・さっさと還りなさい
でないと間に合わないよ」

いくら耳を塞いでも、天の声はココロに響き渡るものだ。




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