2013年1月26日土曜日
ある島の言い伝え
世界がまだ泥のように混沌としていたころ
その泥の中から最初に動き出したのが龍であった
秩序といえるものなど何も無く
龍たちは情動のおもむくがままに暴れまわっていた
あるものは炎を吐き あるものは嵐を呼び
「世界」は喧騒と怒号にあふれていた
やがて・・・砂浜の砂粒の数ほどの
気の遠くなるような月日が過ぎ去り
生き残ったわずかばかりの龍たちは
それでも争いを止める気配も見せずに
傷つき疲弊した体でにらみ合っていた
しかし すでにそのころ海の中では
新しい生命(イノチ)が生まれていた
妖精である
さらに・・・砂浜の砂粒の数ほどの
気の遠くなるような月日が過ぎ去り
海から陸にあがってきた妖精は
不思議な歌を龍たちに聞かせることができた
年老いても
いっこうに静まる気配を見せない龍たちだったが
その歌を聞いたとたん
またたくまに深い眠りに落ちていった
龍が深い眠りに落ちて・・・
砂浜の砂粒の数ほどの月日が過ぎ去り
ようやくこの島が生まれた
そしてこの島の中央に高くそびえる山には
荒々しい龍が未だに眠りつづけているという
深い眠りの中で
夢を見続けているという
どんな夢なのか
いつ目覚めるのか・・・だれも知らない
2013年1月19日土曜日
自己表現へ
50兆円で米国債を買うという。50兆円あれば・・・移住希望者や自主避難者への補助・・・どれだけ多くの希望が生まれるだろう。
かたや大阪では、試験中止や職員解任・・・などなど。知事時代の自らの体罰容認発言は何だったのか。まさか・・・あの頃から計画された、命を利用した教育現場への政治介入・・・?
さてさて、この人たちは何処へ向かってるのか・・・。そっちの道は行き止まり。まさに時代のウナリ・・・。
話しは変わるが、自己実現の世から自己表現の世へ変わる・・・と、カタカムナのヒラメキとして知っていた。けれど正直言って、自己実現と自己表現の違いがよくわからなかった。
イメージしたことが現実となる・・・とは、夢を表現することであり実現することだろう。表現するからこそ実現するのだろう・・・と、明確な違いをうまく理解できないでいた。
その疑問が、ある事実を知って氷解した。なおかつ、その変化が劇的な上昇をもたらす・・・かもしれないことを知った。
古事記は人間の精神構造を言霊の原理にもとづいて解き明かしているが、日本書紀は古事記の解き明かした精神構造をさらに一歩進め、日本民族の使命遂行の方法を解き明かしている・・・というのだ。
古事記で解き明かされる先天十七神(具象化する以前の、潜象世界で動く言霊)は・・・「ウ」から始まり、「ア・ワ」と生まれ、「オ・エ」「ヲ・ヱ」と広がり、「チ・イ・キ・ミ・シ・リ・ヒ・ニ」の創造八神と続き、イザ!!と「イ・ヰ」のイザナギ・イザナミの親神が具象化へ向かう。
つまり、母音から解き起こし、父韻へと導かれる。これは自己実現への道のり・・・と言えなくもない。
ところが・・・日本書紀ではその逆。父韻から導かれるというのだ。それは、創造八神「チ・イ・キ・ミ・シ・リ・ヒ・ニ」から動き始め・・・母音へとつづく。
(逆に動くということは・・・揺り戻しと同じことなのか?)
創造八神から動くとは・・・創造意志が最初に解き放たれるということ。意志・・・「イシ」。ひふみ神示の中に「イシもの言うときくるぞ」・・・とあるのは、そういうことだったのだ・・・。
人は宇宙・・・大自然に・・・生かされている。それをいつのまにか自分で生きていると・・・おかしな言い方だが思い込んでしまった。思い込んでしまったがゆえに、人間が中心の仕組みをつくり、その中で得体の知れないモノに捉われてしまった。
すべての正体が見えたとき、それを脱ぎ捨て、手放して・・・根源的な自由に目覚める。
何者にも束縛されていない、という自由に目覚めたとき・・・そのとき創造意志が発動し、それが自己表現となってゆくのだと気づいた。
日本書紀の最初に出てくる神は国常立神である。言霊「エ」。実践智の「エ」だ。
実践の時代・・・つまりそれは、自己実現という具象化の時代(物質偏重、消費経済といってもいい)を超えて、こだわりを手放したココロ・・・のままの自己の表現への変化、ということだ。
先に書いた、枝道に入り込み行き止まりの世界へ向かう大きな流れは、根源的な自由ではなく「チカラ」を手にしたときの自由でしかない。
その世界の奥に入り込んでいればいるほど、抜け出すためには大きな勇気と大きな意志が必要だろう。手放すのにひと苦労もふた苦労もしなければならない。
そんな苦労をするよりは、ソコで今までどおり・・・何事もなかったように生きている方が楽に決まっている・・・が、一度気がついてしまえばその楽が苦になってしまう。
「早く手放しなさい
大自然に生かされているという
広い広いココロを持った人間に・・・さっさと還りなさい
でないと間に合わないよ」
いくら耳を塞いでも、天の声はココロに響き渡るものだ。
かたや大阪では、試験中止や職員解任・・・などなど。知事時代の自らの体罰容認発言は何だったのか。まさか・・・あの頃から計画された、命を利用した教育現場への政治介入・・・?
さてさて、この人たちは何処へ向かってるのか・・・。そっちの道は行き止まり。まさに時代のウナリ・・・。
話しは変わるが、自己実現の世から自己表現の世へ変わる・・・と、カタカムナのヒラメキとして知っていた。けれど正直言って、自己実現と自己表現の違いがよくわからなかった。
イメージしたことが現実となる・・・とは、夢を表現することであり実現することだろう。表現するからこそ実現するのだろう・・・と、明確な違いをうまく理解できないでいた。
その疑問が、ある事実を知って氷解した。なおかつ、その変化が劇的な上昇をもたらす・・・かもしれないことを知った。
古事記は人間の精神構造を言霊の原理にもとづいて解き明かしているが、日本書紀は古事記の解き明かした精神構造をさらに一歩進め、日本民族の使命遂行の方法を解き明かしている・・・というのだ。
古事記で解き明かされる先天十七神(具象化する以前の、潜象世界で動く言霊)は・・・「ウ」から始まり、「ア・ワ」と生まれ、「オ・エ」「ヲ・ヱ」と広がり、「チ・イ・キ・ミ・シ・リ・ヒ・ニ」の創造八神と続き、イザ!!と「イ・ヰ」のイザナギ・イザナミの親神が具象化へ向かう。
つまり、母音から解き起こし、父韻へと導かれる。これは自己実現への道のり・・・と言えなくもない。
ところが・・・日本書紀ではその逆。父韻から導かれるというのだ。それは、創造八神「チ・イ・キ・ミ・シ・リ・ヒ・ニ」から動き始め・・・母音へとつづく。
(逆に動くということは・・・揺り戻しと同じことなのか?)
創造八神から動くとは・・・創造意志が最初に解き放たれるということ。意志・・・「イシ」。ひふみ神示の中に「イシもの言うときくるぞ」・・・とあるのは、そういうことだったのだ・・・。
人は宇宙・・・大自然に・・・生かされている。それをいつのまにか自分で生きていると・・・おかしな言い方だが思い込んでしまった。思い込んでしまったがゆえに、人間が中心の仕組みをつくり、その中で得体の知れないモノに捉われてしまった。
すべての正体が見えたとき、それを脱ぎ捨て、手放して・・・根源的な自由に目覚める。
何者にも束縛されていない、という自由に目覚めたとき・・・そのとき創造意志が発動し、それが自己表現となってゆくのだと気づいた。
日本書紀の最初に出てくる神は国常立神である。言霊「エ」。実践智の「エ」だ。
実践の時代・・・つまりそれは、自己実現という具象化の時代(物質偏重、消費経済といってもいい)を超えて、こだわりを手放したココロ・・・のままの自己の表現への変化、ということだ。
先に書いた、枝道に入り込み行き止まりの世界へ向かう大きな流れは、根源的な自由ではなく「チカラ」を手にしたときの自由でしかない。
その世界の奥に入り込んでいればいるほど、抜け出すためには大きな勇気と大きな意志が必要だろう。手放すのにひと苦労もふた苦労もしなければならない。
そんな苦労をするよりは、ソコで今までどおり・・・何事もなかったように生きている方が楽に決まっている・・・が、一度気がついてしまえばその楽が苦になってしまう。
「早く手放しなさい
大自然に生かされているという
広い広いココロを持った人間に・・・さっさと還りなさい
でないと間に合わないよ」
いくら耳を塞いでも、天の声はココロに響き渡るものだ。
2013年1月12日土曜日
回帰
すでに次のステージは始まっている。
でも、次のステージがどういうステージなのかハッキリとはわからない。ひとつだけわかっていることは・・・誤魔化しができないということ。
誤魔化せない・・・そのつもりで世間を見れば興味深い。何故かその人の本性が見えてしまう。表に現われてしまう。
たぶんそれは、自分の本性へ向かって・・・自分の「ス」に向かって・・・回帰し始めている・・・と、いうことかもしれない。いわゆる、揺り戻しだ。
本性のままに生きるとストレスがなくなる。ストレスというのはどちらかに偏った状態だ。
回帰するとは、だから偏った状態が真ん中の・・・中庸の位置に向かって移動し始める・・・ということ。
言い方を変えると、それぞれが自らの生きるべき場所で生きてゆくようになる・・・ということ。
同時にそれは、別々になるということでもある。もちろん、別れではなく本来の始まり・・・として。
ただ、わたしには気になることがある。それは、近いうちに世界の人口が三分の一になる・・・という話しだ。
すでに本性が見えてしまった現政府を見ていると・・・さもありなん・・・と。まるでどこかの国の愛犬。名ブリーダーと聞き分けの良い犬・・・のようで・・・。
さてさて、つまらない話しになりそうなので・・・話しを変える。
世界が「ス」に回帰している・・・と閃いたのはずいぶん前だが、その時に長い間なかなか解けなかったコトバの意味が、同じように降りてきた。
それは、わたしの名前の「サ」というコトバだ。
「ス」というのは、須佐男(スサノオ)の「ス」でもあって、実はアマテラス次元を助ける物質文明を象徴しているともいわれる。
助ける神だから・・・「佐」という文字が入っている。これは「佐(スケ)」・・・補佐し助けるという意味がある。
本来のスサノオ次元のエネルギーが素直に働いていれば、今とはまったく違った物質文明が広がっていたと思える。
それが、うまく働かなかった・・・。
そのことは以前書いたので、ここでは省くが・・・わたしの「サ」は、この「佐」ということだ。つまり・・・「支える」「サポート」の「サ」。
ピン!!・・・ときた瞬間、わたしの使命が、やっと見え始めた。おめでとう。
でも、次のステージがどういうステージなのかハッキリとはわからない。ひとつだけわかっていることは・・・誤魔化しができないということ。
誤魔化せない・・・そのつもりで世間を見れば興味深い。何故かその人の本性が見えてしまう。表に現われてしまう。
たぶんそれは、自分の本性へ向かって・・・自分の「ス」に向かって・・・回帰し始めている・・・と、いうことかもしれない。いわゆる、揺り戻しだ。
本性のままに生きるとストレスがなくなる。ストレスというのはどちらかに偏った状態だ。
回帰するとは、だから偏った状態が真ん中の・・・中庸の位置に向かって移動し始める・・・ということ。
言い方を変えると、それぞれが自らの生きるべき場所で生きてゆくようになる・・・ということ。
同時にそれは、別々になるということでもある。もちろん、別れではなく本来の始まり・・・として。
ただ、わたしには気になることがある。それは、近いうちに世界の人口が三分の一になる・・・という話しだ。
すでに本性が見えてしまった現政府を見ていると・・・さもありなん・・・と。まるでどこかの国の愛犬。名ブリーダーと聞き分けの良い犬・・・のようで・・・。
さてさて、つまらない話しになりそうなので・・・話しを変える。
世界が「ス」に回帰している・・・と閃いたのはずいぶん前だが、その時に長い間なかなか解けなかったコトバの意味が、同じように降りてきた。
それは、わたしの名前の「サ」というコトバだ。
「ス」というのは、須佐男(スサノオ)の「ス」でもあって、実はアマテラス次元を助ける物質文明を象徴しているともいわれる。
助ける神だから・・・「佐」という文字が入っている。これは「佐(スケ)」・・・補佐し助けるという意味がある。
本来のスサノオ次元のエネルギーが素直に働いていれば、今とはまったく違った物質文明が広がっていたと思える。
それが、うまく働かなかった・・・。
そのことは以前書いたので、ここでは省くが・・・わたしの「サ」は、この「佐」ということだ。つまり・・・「支える」「サポート」の「サ」。
ピン!!・・・ときた瞬間、わたしの使命が、やっと見え始めた。おめでとう。
2013年1月5日土曜日
「ス」のこころ
石炭や石油というのは、地球がその大地に埋め込んだ太古の遺物なので、それは太古の地球にとっては必要な物質だったのだろう。
それを何故、地球が大地の中に埋めたのかというと・・・その進化において用を終えたからだ。つまり、今は地上に必要ないわけだ。
必要のない太古のものを、わざわざ掘り出して燃やせば・・・太古の空気が出てくるだろう。
もちろんそれは、人間が地上に存在する以前の空気で、おそらく人間はその空気の中では生きてゆけない。
どうしても化石燃料は必要なのか?
人工的な核分裂にいたっては、地球のこころの深い部分を傷つけているような気がしてならない。
たとえば・・・
小さな箱型の発電機が各家庭に1個あって、おまけにその発電機は循環型で・・・だから半永久的。電気代はタダ。長い長い送電線もいらないし、大きな大きな発電所もいらない。
人類の科学は、どうしてそういうふうな方向に向かわなかったんだろう・・・。
ただ、すでに時間が止まったおかげで、いろいろなものが見え出してきている。「時間の壁」が崩れ始めたということだ。
崩れた壁の向こうに見えるのは・・・人類が歩んできた歴史のあちこちに転がっている矛盾。
矛盾をひとつひとつ検証していくと、いままで常識として身につけていた知識が・・・時間の壁と同じように崩れてゆく。
以前にも書いたが、医療や司法・・・政治もそうだが、まるで人が幸せに暮すことを望んでいないんじゃないか・・・って疑うようなシステムは、いつどうやって造られたのか・・・とか。
今の世界が消えてしまう・・・というのじゃなくて、方向を変えてゆくわけだ。それには、現状の間違えに気づくこと。
その時がきている。
現在の技術を、そのまま人々の幸せのために使えばいいだけ。そうして使っているあいだに、必要なものが残りいらないものは消えてゆくだろう。
利権を争ったり保身のために見失ったり、そんなことじゃ文化は向上しない。ましてや戦争などで未来が広がるわけでもなく・・・。
今ある技術を誰かの幸せのために使う・・・たったこれだけのこと。これが利他共生。
素直な気持ちになれば、自然と出てくる感情のことだ。「素(ス)」のこころ。この国には「素(ス)」のこころが普通に漂っている。スサノオ神の「ス」なのだから。
それを何故、地球が大地の中に埋めたのかというと・・・その進化において用を終えたからだ。つまり、今は地上に必要ないわけだ。
必要のない太古のものを、わざわざ掘り出して燃やせば・・・太古の空気が出てくるだろう。
もちろんそれは、人間が地上に存在する以前の空気で、おそらく人間はその空気の中では生きてゆけない。
どうしても化石燃料は必要なのか?
人工的な核分裂にいたっては、地球のこころの深い部分を傷つけているような気がしてならない。
たとえば・・・
小さな箱型の発電機が各家庭に1個あって、おまけにその発電機は循環型で・・・だから半永久的。電気代はタダ。長い長い送電線もいらないし、大きな大きな発電所もいらない。
人類の科学は、どうしてそういうふうな方向に向かわなかったんだろう・・・。
ただ、すでに時間が止まったおかげで、いろいろなものが見え出してきている。「時間の壁」が崩れ始めたということだ。
崩れた壁の向こうに見えるのは・・・人類が歩んできた歴史のあちこちに転がっている矛盾。
矛盾をひとつひとつ検証していくと、いままで常識として身につけていた知識が・・・時間の壁と同じように崩れてゆく。
以前にも書いたが、医療や司法・・・政治もそうだが、まるで人が幸せに暮すことを望んでいないんじゃないか・・・って疑うようなシステムは、いつどうやって造られたのか・・・とか。
今の世界が消えてしまう・・・というのじゃなくて、方向を変えてゆくわけだ。それには、現状の間違えに気づくこと。
その時がきている。
現在の技術を、そのまま人々の幸せのために使えばいいだけ。そうして使っているあいだに、必要なものが残りいらないものは消えてゆくだろう。
利権を争ったり保身のために見失ったり、そんなことじゃ文化は向上しない。ましてや戦争などで未来が広がるわけでもなく・・・。
今ある技術を誰かの幸せのために使う・・・たったこれだけのこと。これが利他共生。
素直な気持ちになれば、自然と出てくる感情のことだ。「素(ス)」のこころ。この国には「素(ス)」のこころが普通に漂っている。スサノオ神の「ス」なのだから。
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