2012年10月20日土曜日

「イ」の世界から見れば


「血脈主義」という言葉が印象に残っている。こんな言い方があるのか・・・も知らない。でも、何を言いたいのか・・・というのはウスウス分かる。

きっと・・・彼の中で「差別」というものが消化出来ていないのだろう。怯えた眼をしているのはそのせい・・・でもあるのか。

政治家として見たら、じつにフトコロが狭い。「それがどうした」・・・って、開き直ってやればカッコイイものを。

「ケンカ」しか出来ない人間には、「差別」を生み出すことは出来ても無くすことができない。


・・・などと言いながらも実は、わたしは週刊朝日を読んでいない。読む気がしなかった・・・というのが事実だが。

それよりも週刊文春(10月25日号)の記事が気になってしまった。ひょっとすると、こっちの記事を隠すためにあっちで大騒ぎしたのか?・・・もしれない。

維新の会と、それに群がる人々・・・。


・・・あ。そういう話しはやめよう。つまらない。おぞましい。


群がるといえば・・・前回、少しふれたけれど、この社会には永遠に解決出来そうもない「矛盾」がいくつか存在する。

そのひとつが医学。
病気を治せても、無くすことが出来ない。病気が無くなれば職を失う人がたくさん出てくる・・・という「矛盾」。

もうひとつは、犯罪。
取り締まりは出来ても、無くすことが出来ない。犯罪が無くなれば職を失う人がたくさん出てくる・・・という「矛盾」。

これらは底なしの螺旋を描きながら「不安」を生み出してゆく。そして「不安」はお金になる。その利権に群がってくる。手放せない。


はるか昔からこの螺旋はつづいていて、構造的にわたしたちの生活を形作っている。あまりにも日常の中に溶け込んでいるので、ちっとも気がつかない。

けれど、せめて・・・言霊の国の人々には気づいてほしいと思う。見えない世界の自分が主体で、見える世界の自分が客体。

人間が命を持っている・・・のではなくて、命の中に人間は生きている。



物質至上文明では「ウ(欲)」と「オ(経験・学問)」が極端に成長する。だからその外側に広がる「ア(芸術・宗教)」は「ウ」と「オ」の方便として利用される。

ましてや、さらに広大な「エ(徳・利他)」の世界の存在など理解出来ないだろう。


わたしたちは・・・恐らく、幼い頃から「ウ」の世界からの視点しか学ぶことが出来なかったのだと思う。そういう教育を受けてきた。だから、宗教は争いの道具となり、誰かの私利私欲の種となる。

「ウ」の世界から見えるのは「ア」の一部まで。それは・・・まるで、天動説の世界だ。


視点を主体の側・・・「イ」の世界から物事を見つめなおすと・・・なんと気分がゆったりと変化することか。

すべての世界が、くまなく見渡せる。

すべては「エ(徳・利他)」の世界を透して現われるので・・・知識や経験(オ)・欲望(ウ)は、自分のためではなくて誰かのために使われる。

人間は誰一人の例外なく、誰かのために生まれてきた・・・はず。それは、人間の身体を造っている細胞のひとつひとつの関係と同じ。

その相似象が人類で・・・地球で・・・太陽系で・・・銀河系で・・・宇宙で・・・ねむい・・・

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