経験(オ)が煮(二)詰まる・・・あるいは、知識(オ)が煮(二)詰まった状態を「オニ」というのだろう。
経験が出口を失った・・・ということは、カルマを清算できなかった・・・ともとれる。知識が出口を失った・・・ということは、溺れてしまって過ちに気づかない・・・ともとれる。
戦争はカルマのオニを生み出し、縦社会は溺れたオニを造り出す。どれほどのオニの足跡を刻み・・・そしてこれからも刻んでゆくのだろう。
退治される側だけがオニではない。鬼征伐と称して自らを正当化しようとする側も、またオニとなる。
オニに怯え、オニを見つめることをしなかった平安貴族たちもまた、オニを育てるオニ・・・にしか成りえなかったのかもしれない。
やがて、チカラを持ったオニが国家を動かし、庶民はホトケにすがることになる。
・・・最近、警察や検察のスガタを見るたびに・・・あぁ、ここはオニの巣窟か・・・と思うときがある。
彼らは自らのオニに気づいていないのか、それともオニであることを自覚しているのか・・・そういえば「法」の番人なる言い方があるけれど・・・自らをエンマと見ているのだろうか・・・。
オニにならなければ守れないような法などいらない。
オニといえば「酒呑童子」だが、酒呑童子のようなオニはあちこちにいただろう・・・と、わたしは思っている。
彼らは縄文の血を引く、縄文のシステムで生活していた人々なんだろう。
どこかの国のネイティブと白人の関係を見ればよくわかる。日本では「賎民」と呼ばれた。「せんみん」・・・「先民」のことだ。
チカラと法でからめて、すべてを奪ってゆく。
縄文人は「オニ」の正体を知っていたのだろう、自らのオニを目覚めさせることを避けるために山に入った・・・と考えればよくわかると思う。
酒呑童子の国は理想の国なので、こころある人々はそこへ訪れ・・・中には居ついてしまう人もいたのだと思う。
これが「失踪」というこになって、こころよく思わない人々の鬼退治伝説につながる。
抑圧され、奪われ・・・中にはオニになってしまった縄文人もたくさんいたと思うが・・・そのカルマは時代を経て、後の人々に受け継がれてゆく。
カルマ・・・という経験は出口をうしない、煮詰まって、そこかしこにネガティブな波動を残して・・・とうとう、「今」につながった。
さて、このネガティブな波動を浄化させるには・・・たぶん、人間の意識波動しかないんじゃないか・・・とわたしは思っている。
それは、世界中にオニを生み出した、わたしたち人類の責任でもある。
「オ」の対は「エ」。「えがお」「えだ」「えらぶ」・・・どの道を選ぶのか・・・。「エ」は「オ」の経験智に対しての実践智でもある。
こころのオニを笑顔で抱きしめて、オニといっしょに考えれば・・・いい方法が見つかるんじゃないかな・・・たぶん。
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