いまさら・・・という感じになってしまったが、あの「おもてなし」のポーズ、あれは東南アジアのスタイルだろう・・・と、今でも思っている。誰も言わないけれど・・・。
東京開催についての感想は今でも変わっていない。福島原発は東京の電気をつくっていた。そのことは忘れちゃいけないと思う。
ただ、2020年開催ということで、ここに何か大きな・・・大いなるというか、そういう働きがあるように思う。
たとえ選考委員への・・・なんというか、過大すぎる働きかけの結果であったにせよ、2020年に日本で行われる・・・ということにはきっと意味があるはずだ。
わたしが個人的に感じていることは、2017年、2018年あたりに大きな変化が起こりそうな気がして・・・その先に行われるオリンピックはずいぶん違ったものになるんだろう・・・ということだ。
具体的には言えないけれど、きっと・・・新しい何か・・・形式なのか、意識的なことなのか・・・現在の実行委員や広告代理店や資本家などの思惑とはずいぶん違ったもの・・・。
現れ方が表か裏か…ということは読めないけれど・・・まったく新しいオリンピックの第一回・・・ということになる・・・はず。
それはそれで期待感あふれる感じではあるけれど、問題はそこまでにいったいどういうことが起こるのか・・・ということ・・・ではある。
でも、それはわからない。わからないからこそ、日本人としての・・・あるいは人間としての本質を見失わないことだと思っている。
見えない世界からの「軸」を手放さないことだ。それは何度も書いてきた。
話は変わるが、神社には神の像がない。お寺の観音や如来仏像、キリスト教会のマリアやキリスト像に類するものはない。そこには鏡があるだけだ。
・・・鏡。自分と自分を見ているもうひとりの自分。主体と客体。見えない世界の自分と見える世界の自分・・・のことだ。見えない世界に神がいる。
見えない世界にいる神と、見える世界にいる自分がつながる場所。
古事記の天の岩戸の場面。天照大神が岩戸を少し開けて・・・すると外から手力男神が鏡を差し出す。天照大神は、つまり自分の姿を見ている。なんとも象徴的な場面だ。
宇宙には神のハタラキがあり、その宇宙は内有(うちう)。人の内にも有る。人の内に神はいる。だから神社には神の像はない。
神社は、そのことに気づき、見えない世界からの「軸」を取り戻す場所でもある。鳥居をくぐったときのあの凛とした感覚。万物とつながった感覚・・・あの内では殺生などできない。
揺れはだんだん大きくなる。「軸」から離れれば離れるほど物質化となる。人の体をもモノ次元でおさめようとするのはその現れだ。
究極、上位の者は下位の者を・・・モノとして扱う。
けれど、揺れには必ず揺り戻しが起こる。そうなるともう耐えられない。外側は消滅へ向かわなければならないだろう。それこそ火星へ移住・・・ということになるかもしれない。
そうなること・・・そういう世界に向かうことは2000年も前にわかっていた・・・らしい。だからこの国には、見えない世界と見える世界をつなぐ場所・・・神社がたくさん存在するのだ。
もし、わたしの感じていることが・・・感じている空気が正しければ、近年中に大きな変化が訪れる・・・ことになる。
わたしが出来ることは・・・たぶん、身近な人たちの支えとなる・・・ことぐらいかな・・・。地球を離れる気はサラサラないから・・・そう、地球を守りたい・・・と思っている。
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