食品偽装につづいて食中毒。胃炎、腸炎になっても不思議はない・・・ということかな。そのうち肺や心臓も出てくるんだろう。
タミフルやリレンザ・・・残留農薬や添加物・・・などの規制緩和。放射能による障害は、全部覆い隠されてしまうんだろう・・・か。
最近はいつもザワザワしたものを感じている。
かといって全部オープンになれば・・・他国からの干渉に耐えられない。国体は維持できなくなって、この国の民はみんな道具のように絡め取られてしまう・・・かもしれない。そのことに気づくか気づかないか・・・は別として。
民族を支配し、根絶やしにするのは何も重火器兵器による戦争だけではない。退廃と腐敗、不安と恐怖・・・自立できなくすれば、簡単に道具になってしまう。
だったら、これは何者かとの戦いなのか・・・いや、ホントは・・・戦いではないとわたしは感じている。なぜなら、敵がよく見えないからだ。
少なくとも、この次元にはいない。
だいいち、ひとつの・・・たとえば・・・ひとつの胃袋の、外側の細胞と内側の細胞が戦いを始める・・・なんてことはありえない。
宇宙はひとつ・・・ということはそういうこと。宇宙というひとつの命の中の一部にわたしたちの星があり、そしてその星の一部としてのわたしたちがいる。
それなのに、なぜ戦いのように見えるんだろう・・・たぶんそれは・・・ガンを敵とみなし戦ってきた歴史によく似ているんじゃないか。
血液のニゴリが全身に回らないように、その汚れを一箇所に集める・・・これをガンという。やがて危機が去れば、ガン細胞は消え失せ・・・赤血球に戻り、元の循環を繰り返す。
ということは、人の命を守るためにガン細胞は存在する。だからこそ、誰の体にもガン細胞は存在する。
ホントは味方であるはずのガンを敵とみなして、人類は戦いつづけてきた。敵とみなされたガンの悲しみが壁になって、魂から・・・見えない世界から、肉体を通じて伝えられてくるメッセージが聞こえないでいた。
ガンが人を苦しめてきたんじゃなくて、人がガンを・・・肉体を苦しめてきたんだろう。送られてくるメッセージは、心の・・・魂の扉が開けば、みんな聞こえるようになるのに。
扉を開くということは、追われたエデンの園に還るということ。また自由に立ち入ることができるようになる・・・ということ。
ところで、血液のニゴリは海のニゴリと相似象だ。なにしろわたしたち人間は、地球の一部なんだから。
だから、海のニゴリを無くす方法を、相似象の関係性を踏まえながら人間の血液に合わせていけば・・・たぶん血液のニゴリを無くす方法がわかるはず・・・と思う。
それは同時に、海のニゴリを無くす方法が、人類社会のニゴリを無くす方法・・・につながるんじゃないか・・・とも思っている。飛躍し過ぎだろうか・・・。
2014年1月25日土曜日
2014年1月18日土曜日
いまさら・・・
いまさら・・・という感じになってしまったが、あの「おもてなし」のポーズ、あれは東南アジアのスタイルだろう・・・と、今でも思っている。誰も言わないけれど・・・。
東京開催についての感想は今でも変わっていない。福島原発は東京の電気をつくっていた。そのことは忘れちゃいけないと思う。
ただ、2020年開催ということで、ここに何か大きな・・・大いなるというか、そういう働きがあるように思う。
たとえ選考委員への・・・なんというか、過大すぎる働きかけの結果であったにせよ、2020年に日本で行われる・・・ということにはきっと意味があるはずだ。
わたしが個人的に感じていることは、2017年、2018年あたりに大きな変化が起こりそうな気がして・・・その先に行われるオリンピックはずいぶん違ったものになるんだろう・・・ということだ。
具体的には言えないけれど、きっと・・・新しい何か・・・形式なのか、意識的なことなのか・・・現在の実行委員や広告代理店や資本家などの思惑とはずいぶん違ったもの・・・。
現れ方が表か裏か…ということは読めないけれど・・・まったく新しいオリンピックの第一回・・・ということになる・・・はず。
それはそれで期待感あふれる感じではあるけれど、問題はそこまでにいったいどういうことが起こるのか・・・ということ・・・ではある。
でも、それはわからない。わからないからこそ、日本人としての・・・あるいは人間としての本質を見失わないことだと思っている。
見えない世界からの「軸」を手放さないことだ。それは何度も書いてきた。
話は変わるが、神社には神の像がない。お寺の観音や如来仏像、キリスト教会のマリアやキリスト像に類するものはない。そこには鏡があるだけだ。
・・・鏡。自分と自分を見ているもうひとりの自分。主体と客体。見えない世界の自分と見える世界の自分・・・のことだ。見えない世界に神がいる。
見えない世界にいる神と、見える世界にいる自分がつながる場所。
古事記の天の岩戸の場面。天照大神が岩戸を少し開けて・・・すると外から手力男神が鏡を差し出す。天照大神は、つまり自分の姿を見ている。なんとも象徴的な場面だ。
宇宙には神のハタラキがあり、その宇宙は内有(うちう)。人の内にも有る。人の内に神はいる。だから神社には神の像はない。
神社は、そのことに気づき、見えない世界からの「軸」を取り戻す場所でもある。鳥居をくぐったときのあの凛とした感覚。万物とつながった感覚・・・あの内では殺生などできない。
揺れはだんだん大きくなる。「軸」から離れれば離れるほど物質化となる。人の体をもモノ次元でおさめようとするのはその現れだ。
究極、上位の者は下位の者を・・・モノとして扱う。
けれど、揺れには必ず揺り戻しが起こる。そうなるともう耐えられない。外側は消滅へ向かわなければならないだろう。それこそ火星へ移住・・・ということになるかもしれない。
そうなること・・・そういう世界に向かうことは2000年も前にわかっていた・・・らしい。だからこの国には、見えない世界と見える世界をつなぐ場所・・・神社がたくさん存在するのだ。
もし、わたしの感じていることが・・・感じている空気が正しければ、近年中に大きな変化が訪れる・・・ことになる。
わたしが出来ることは・・・たぶん、身近な人たちの支えとなる・・・ことぐらいかな・・・。地球を離れる気はサラサラないから・・・そう、地球を守りたい・・・と思っている。
東京開催についての感想は今でも変わっていない。福島原発は東京の電気をつくっていた。そのことは忘れちゃいけないと思う。
ただ、2020年開催ということで、ここに何か大きな・・・大いなるというか、そういう働きがあるように思う。
たとえ選考委員への・・・なんというか、過大すぎる働きかけの結果であったにせよ、2020年に日本で行われる・・・ということにはきっと意味があるはずだ。
わたしが個人的に感じていることは、2017年、2018年あたりに大きな変化が起こりそうな気がして・・・その先に行われるオリンピックはずいぶん違ったものになるんだろう・・・ということだ。
具体的には言えないけれど、きっと・・・新しい何か・・・形式なのか、意識的なことなのか・・・現在の実行委員や広告代理店や資本家などの思惑とはずいぶん違ったもの・・・。
現れ方が表か裏か…ということは読めないけれど・・・まったく新しいオリンピックの第一回・・・ということになる・・・はず。
それはそれで期待感あふれる感じではあるけれど、問題はそこまでにいったいどういうことが起こるのか・・・ということ・・・ではある。
でも、それはわからない。わからないからこそ、日本人としての・・・あるいは人間としての本質を見失わないことだと思っている。
見えない世界からの「軸」を手放さないことだ。それは何度も書いてきた。
話は変わるが、神社には神の像がない。お寺の観音や如来仏像、キリスト教会のマリアやキリスト像に類するものはない。そこには鏡があるだけだ。
・・・鏡。自分と自分を見ているもうひとりの自分。主体と客体。見えない世界の自分と見える世界の自分・・・のことだ。見えない世界に神がいる。
見えない世界にいる神と、見える世界にいる自分がつながる場所。
古事記の天の岩戸の場面。天照大神が岩戸を少し開けて・・・すると外から手力男神が鏡を差し出す。天照大神は、つまり自分の姿を見ている。なんとも象徴的な場面だ。
宇宙には神のハタラキがあり、その宇宙は内有(うちう)。人の内にも有る。人の内に神はいる。だから神社には神の像はない。
神社は、そのことに気づき、見えない世界からの「軸」を取り戻す場所でもある。鳥居をくぐったときのあの凛とした感覚。万物とつながった感覚・・・あの内では殺生などできない。
揺れはだんだん大きくなる。「軸」から離れれば離れるほど物質化となる。人の体をもモノ次元でおさめようとするのはその現れだ。
究極、上位の者は下位の者を・・・モノとして扱う。
けれど、揺れには必ず揺り戻しが起こる。そうなるともう耐えられない。外側は消滅へ向かわなければならないだろう。それこそ火星へ移住・・・ということになるかもしれない。
そうなること・・・そういう世界に向かうことは2000年も前にわかっていた・・・らしい。だからこの国には、見えない世界と見える世界をつなぐ場所・・・神社がたくさん存在するのだ。
もし、わたしの感じていることが・・・感じている空気が正しければ、近年中に大きな変化が訪れる・・・ことになる。
わたしが出来ることは・・・たぶん、身近な人たちの支えとなる・・・ことぐらいかな・・・。地球を離れる気はサラサラないから・・・そう、地球を守りたい・・・と思っている。
2014年1月11日土曜日
イルミネーション
いつ頃からかハッキリしないけれど・・・イルミネーションに感動しなくなった。何でだろう。いくら派手になっても・・・物足りなさでスッキリしない。
さまざまな色が巻き起こす光の・・・幻想的な世界。幻想・・・マボロシのせいなのか。それともわたしが鈍感になったのか・・・。
ああ・・・そうだ、鈍感になったというのが正しい。
年々規模が大きくなって・・・年々工夫がなされてゆく・・・が、それはたぶん、とめどない欲望の裏返し・・・のようで、よく言えば美しさや感動の探求なんだろうけれど・・・。
上昇拡大思考の現れ・・・とも、なんとなく違うような気がする。巨大になって、威圧感を増してゆく建造物のような・・・なんとなくそんな感じ。
毎年変化してゆくイルミネーションよりも、遠い昔から変わらない星のきらめきや、月のかがやきの方が、わたしにとっては感動的で・・・同時に安らぎを感じさせてくれる。
都会の夜景をながめながら・・・なんとも巨大なシステムになったものだ・・・なんて思うのは、ちょっとムードのない話だが・・・わたしはついつい都会のイルミネーションを見ると想像してしまうことがある。
闇の時代の象徴的な・・・その闇の持つ吸引力から離れられない人々。
巨大な権力構造・・・というか、経済システムというか・・・多少の人々の意識が変わったって何の変化も起こらない社会。小さな声は深い闇の中へ消えてしまう。
闇の中ではザワザワとウゴメク無数の声たちが、出口を求めて・・・自分勝手にさまよっている。
そこへ光をあてるのは、なんとも勇気のいることだ。ましてや手を突っ込むなんて恐ろしくてできない。
それでも、巨大なシステムの中にあるんだろう自分らしい生き方をめざして・・・周囲に流されることなく・・・向かうべき場所に向かって・・・闇の中を進む。
まるで巨大なイルミネーションに溶け込むような・・・電飾の球のひとつになった自分を美しいと思うような・・・なんとも納得のいかない感覚に包まれる。
そんなことを想像してしまうのは、たぶん・・・モノの世界に馴れすぎたせいだ。
何も見えていない人間が、なんでも見えている気になって・・・すべてをモノの次元で判断することを学んだせいだと思う。
物質世界がすべてだと思っているので、見えない世界が闇の世界に変化してしまう。闇の世界を恐れ、恐れながらも闇の世界をさまよってしまう。
けれど、そのままではどこまで行っても逃れられない。見える世界は見えない世界の内にあるのだから、当然といえば当然だ。
都会の闇の中で輝くイルミネーションは・・・そういう人間の感覚を表現しているのかも・・・。
さて、2014年はどんな年になるんだろう・・・と考えている。
岩戸が開いた・・・というのは、人間としての本質が表に出てくる・・・ということでもある。人間が人間らしくなる・・・と言ってもいい。
個性が顔を出すので、今までのように均一・均等を目指していては、きっとおかしくなってしまう。別々な個性が融合しあい・・・または摩擦しあい・・・新しい何かがアチコチで生まれる・・・そんな年になると思う。
だから、混沌はまだ続く。闇が濃くなるかもしれない。
闇の中に光が溶けるのか、それとも光の中に闇が溶けるのか・・・夜明け間近ということを考えると後者の方なんだろうけれど・・・うまく個性のレゴブロックがはまって、素敵な未来になればいい。
神から分離した人間が、グルッとまわってやっと還ってくる。その還るべき場所は・・・見えない世界から伸びている「軸」がわかれば間違えることもないはず。
システムが崩壊して、みんなバラバラになっても、「軸」さへ手放さなければだいじょうぶ。人間性をなくさなければだいじょうぶ。
「良心」が教えてくれるはず。
さまざまな色が巻き起こす光の・・・幻想的な世界。幻想・・・マボロシのせいなのか。それともわたしが鈍感になったのか・・・。
ああ・・・そうだ、鈍感になったというのが正しい。
年々規模が大きくなって・・・年々工夫がなされてゆく・・・が、それはたぶん、とめどない欲望の裏返し・・・のようで、よく言えば美しさや感動の探求なんだろうけれど・・・。
上昇拡大思考の現れ・・・とも、なんとなく違うような気がする。巨大になって、威圧感を増してゆく建造物のような・・・なんとなくそんな感じ。
毎年変化してゆくイルミネーションよりも、遠い昔から変わらない星のきらめきや、月のかがやきの方が、わたしにとっては感動的で・・・同時に安らぎを感じさせてくれる。
都会の夜景をながめながら・・・なんとも巨大なシステムになったものだ・・・なんて思うのは、ちょっとムードのない話だが・・・わたしはついつい都会のイルミネーションを見ると想像してしまうことがある。
闇の時代の象徴的な・・・その闇の持つ吸引力から離れられない人々。
巨大な権力構造・・・というか、経済システムというか・・・多少の人々の意識が変わったって何の変化も起こらない社会。小さな声は深い闇の中へ消えてしまう。
闇の中ではザワザワとウゴメク無数の声たちが、出口を求めて・・・自分勝手にさまよっている。
そこへ光をあてるのは、なんとも勇気のいることだ。ましてや手を突っ込むなんて恐ろしくてできない。
それでも、巨大なシステムの中にあるんだろう自分らしい生き方をめざして・・・周囲に流されることなく・・・向かうべき場所に向かって・・・闇の中を進む。
まるで巨大なイルミネーションに溶け込むような・・・電飾の球のひとつになった自分を美しいと思うような・・・なんとも納得のいかない感覚に包まれる。
そんなことを想像してしまうのは、たぶん・・・モノの世界に馴れすぎたせいだ。
何も見えていない人間が、なんでも見えている気になって・・・すべてをモノの次元で判断することを学んだせいだと思う。
物質世界がすべてだと思っているので、見えない世界が闇の世界に変化してしまう。闇の世界を恐れ、恐れながらも闇の世界をさまよってしまう。
けれど、そのままではどこまで行っても逃れられない。見える世界は見えない世界の内にあるのだから、当然といえば当然だ。
都会の闇の中で輝くイルミネーションは・・・そういう人間の感覚を表現しているのかも・・・。
さて、2014年はどんな年になるんだろう・・・と考えている。
岩戸が開いた・・・というのは、人間としての本質が表に出てくる・・・ということでもある。人間が人間らしくなる・・・と言ってもいい。
個性が顔を出すので、今までのように均一・均等を目指していては、きっとおかしくなってしまう。別々な個性が融合しあい・・・または摩擦しあい・・・新しい何かがアチコチで生まれる・・・そんな年になると思う。
だから、混沌はまだ続く。闇が濃くなるかもしれない。
闇の中に光が溶けるのか、それとも光の中に闇が溶けるのか・・・夜明け間近ということを考えると後者の方なんだろうけれど・・・うまく個性のレゴブロックがはまって、素敵な未来になればいい。
神から分離した人間が、グルッとまわってやっと還ってくる。その還るべき場所は・・・見えない世界から伸びている「軸」がわかれば間違えることもないはず。
システムが崩壊して、みんなバラバラになっても、「軸」さへ手放さなければだいじょうぶ。人間性をなくさなければだいじょうぶ。
「良心」が教えてくれるはず。
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